人、ちっとも不思議なく出来るってわけさ。……だから底無しの川の中には、幾百人とない男や女が、沈んでいるというわけだ。……そこを見な、その岩の裾を! 白骨が積んであるじゃアねえか。首を釣った奴や舌を噛んで死んだそういう奴らの骨の束だ」
見ればなるほど向こうに見えている、大岩の裾に月光に照らされ、ほの白い物の堆積があった。
「お爺さん」と澄江は震えながら云った。
「何を食べて生きているのです?」
「馬の肉だ、死んだ馬の。……時々そいつを投げてくれるのだ。谷の下口から上の番人が」
「死んだ馬の肉を? ……それが食物?」
「米もなけりゃア麦もねえ。野菜もなけりゃア香の物もねえ。……水といえばドロンと濁った、泥のようなその川の水だ。……だから長く生きられねえ。一月か二月で死んでしまう。……もっとも中にゃアそいつに慣れて、三年五年と生きてる奴がある。……俺なんかはその一人だよ。……」
「皆様どこにいるのです? どこに住んでいるのです?」
「岩窟《いわむろ》の中だ岩窟のな。……向こうにある、行ってみよう」
その老人が先に立ち、澄江たちは先へ進んだ。
人間の骨や馬の骨や――それらしいものが木の根や岩の裾に、灰白く散乱しているのが見えた。
と、行手に月光に照らされ、丘のような物形が見えた。
やはりそれは丘であった。
岩と土と苔と權木、そんなもので出来ている小丘であって、人間の身長《たけ》の二倍ほどの間口と、長い奥行とを持っていた。
そこの前まで辿りついた時、丘の正面の入口から――つまりその丘が岩窟なのであり、正面に入口が出来ているのであったが、その入口から骸骨の群が――骸骨のような痩せた男や女、老人や老婆、男の子や女の子が、ムクムクと泡のように現われ出た。
そうして口々に喚き出した。
「また客が来た」
「俺らの仲間か」
「何か食物を持って来たかしら?」
「着物を剥げ! ひっぺがしてしまえ!」
「若い女だ」
「奇麗な女だ」
「すぐ汚くなるだろう」
「ナーニ半月は経たねえうちに首をくくってくたばるだろう」
すると片眼の老人が、叱るように大声をあげた。
「うるせえ、野郎共、しずかにしろ! ……今度のお客さんはこれ迄のとは、どうやら少オし違うようだ。身体へさわっちゃア不可《いけ》ねえぞ!」
5
片眼の老人は権威者と見える。彼らの仲間の権威者と見える。そう一言云っただけで、彼らの騒動は静まった。
「さあさあ入って見るがいい。家の中へ入って見るがいい」
こう云って老人は澄江を連れて、岩窟の中へ入って行った。
入って真っ先に驚いたのは、何とも云われない悪臭であった。
不浄の匂い、獣皮の匂い、腐肉の匂い、襤褸《ぼろ》の匂い――、いろいろの悪臭が集まって、一つになった得もいわれない悪臭、それがムッと鼻へ来て、澄江は嘔吐を催そうとした。
岩窟の中は寒かった。
凍《こご》えそうなほどにも寒かった。
暗く、低く、狭くもあった。
ところどころに火が燃えていた。
住人が焚火をしているのであった。その周囲に集まったり、岩壁の裾に寝たりして、意外にたくさんの人間がいた。
この時二三人の者が嗄《しわが》れた声で、鼻歌をうたうのが聞こえてきた。
[#ここから3字下げ]
秩父の郡小川村
逸見様庭の桧の根
むかしはあったということじゃ
いまは変わって千の馬
五百の馬の馬飼の
木曾の馬主山主の
山の奥所も遥かなる
秣の山や底なしの
川の中地の岩窟の
御厨子《おずし》[#ルビの「おずし」は底本では「おづし」]に籠りあるという
移り変わるがならわしじゃ
命はあれど形はなく
形は本来地水火じゃ
三所に移り元に帰し
命はあれど形はない
[#ここで字下げ終わり]
それはこういう歌であった。
「お爺さん」と澄江は云った。
「あの歌、何でございますの?」
「誰も彼もうたう歌なのじゃ、……この辺りではちっとも珍らしくない。……所在ないからうたうのさ……ずっと昔からある歌で、意味もなんにもないのだろうよ」
「この岩窟深いのでしょうか?」
「深いそうだ、深いそうだ。が誰もが行ったものはない。行ったものがないということだ。……わしだけは相当奥まで行った。だが中途で引っ返してしまった。……恐ろしいと云おうか凄いと云おうか、あらたかと云おうか何と云おうか、どうにも変な気持がして、とうとう引返してしまったのさ。……人柱が立っているんだからなア……骸骨なんだ、本当の骸骨! ……そっくり原形を保っている奴だ。そいつが岸壁の右にも左にも、ズラリと並んでいやがるじゃアないか」
悪人還元
1
陣十郎は黙々として、山路に向かって歩いていた。
後から主水が従《つ》いて行ったが、これも黙々として物を云わなかった。
嘉門の大屋敷の構内から出、あて[#「あて」に傍点]なしに歩いて行くのであった。
どっちへ向かって歩いているのか、陣十郎には解《わか》らなかった。
師匠の逸見《へんみ》多四郎によって「逆ノ車」が破られたことそのことばかりを考えていた。
月はあったが山路には巨木、……大木老木權木類が、空を被い四辺《あたり》を暗め、月光を遮っているがために、二人の姿は外方《よそ》から見ては、ほとんど見ることが出来なかった。
時もかなり経っていた。
(逸見先生があのような所に、どうしてお居でなされたのだろう?)
このことも気にはかかっていたが、それより必勝不敗の術と、自信していた自己の創始の「逆ノ車」を破られた――このことばかりが不安にも恐ろしくも、情無くも思われるのであった。
まだ破門をされない前に、多四郎の道場で多四郎を相手に、数回「逆ノ車」をもって、立合ったことがあったのであり、そのつど陣十郎が勝ちを取るか、でなかったら相打ちとなった!
それだのに今夜という今夜に限り、物の見事にひっ外されてしまった。
(あの時先生に打つ気さえあって、一歩踏み込んで切られたら、俺は真ッ二つにされたはずだ)
(「逆ノ車」を破られては、俺に勝目はほとんどない。破った先生がそれからそれと、その手を人々に伝えたら、俺は手も足も出なくなる)
これが彼には恐ろしいのであった。
(それともあの時俺の腕が、いつもより鈍っていたがために「逆ノ車」は使ったが、使い方が精妙でなく、それで一時的に外されたのだろうか? もしそうならまだ安心だ)
(では……)と陣十郎は惨忍に思った。
(誰かを、どいつかを、「逆ノ車」で、充分練って用意して、切って切れたら! 切って切れたら!)
自信がつく!
そう思った。
(よ――し、どいつかを切ってやろう?)
(誰を?)と思った時主水のことが、瞬間脳裏に閃いた。
(うむ、こいつを切ってやろう!)
悪人の本性が甦ったのであった。
(思ってみれば主水という奴、危険至極の道連れだった。俺を敵《かたき》と狙う奴だった。そうしていつかはこいつのために、俺は討たれるはずだった。……討たれてなろうか、何を馬鹿な! ……俺も何という男だったろう、いずれこの男に討たれてやろう――などとそんなことを思っていたとは。……それに人心は変わるものだ。俺の心が変わるように。……で、主水め心が変わり、俺の寝息をうかがって、寝首掻かないものでもない。……よ――し、この場で討ち果し、災の根を断ってやろう)
グルリと陣十郎は振り返った。
「主水《もんど》、おい、鴫澤《しぎさわ》主水!」
「何だ?」と主水が足を止めた。
「この暗中でもう一度『逆ノ車』を使って見せてやろう」
2
「それには及ばぬよ」と主水は云った。
心に計画ある時には自ずと五音に現われるもので、陣十郎の言葉の中に、平時《いつも》とは異《ちが》う不吉の響きが、籠っているがためであった。
それが恐ろしく感じられたためで。……
陣十郎はくどく[#「くどく」に傍点]云った。
「昼と夜とは自ずと異う。暗中での『逆ノ車』……使って見せるから刀を抜け」
(使って見せる、教えてやると偽って充分用意をさせ、「逆ノ車」にひっかけ、後腹病まぬよう殺してしまおう)
これが陣十郎の本心であった。
「なるほど」と主水は思わず云った。
「昼と夜とは自ずと異う。暗中での『逆ノ車』……なるほど、こいつ教わった方がいいな」
「いいともさあ、刀を抜きな」
云って陣十郎は先に抜いた。
「よし。……抜いた。……さあ構えた」
主水もそう云ってその通りにした。
二人ながら抜身を構え、暗中に相手と向かい合った。
「主水、充分用心しろよ。……試合などとは思うなよ。……俺を父親の敵《かたき》と思い――事実それに相違ないし……その敵を今討つのだと、こう思って真剣にかかって来い」
「うむ。よし。そのつもりで行こう」
「俺もお前を返り討ちにすると――こう思ってかかって行くつもりだ」
「うむ、そのつもりでかかって来てくれ」
「暗中での『逆ノ車』……ダ――ッとお前の左胴へ、事実入るかもしれないぞよ」
「…………」
「暗中だからな。……どうなるかわからぬ……」
「…………」
「本当にお前を切るかもわからぬ」
「…………」
「暗中だからな……よく見えぬからな」
「…………」
「とすると返り討ちだ。……返り討ちになっても怨むなよ。参るぞ――ッ」と忍音ではあったが、殺す気でかけた鋭い声! それが主水の耳を打った。
(あぶない!)と瞬間主水は思った。
(おかしいぞ! いつもとは違う! ……本当に切る気ではないだろうか?)
主水は自ずと一所懸命になった。
刀を中段にピッタリと構え、闇を通して相手を睨んだ。
暗中ながら相手の姿が、黒く凄まじく立っているのが見え、これも中段に構えている刀が、ボ――ッと薄白く感じられた。
その薄白い刀身ばかりに、主水の眼はひきつけられた。
間!
例によって息詰まるような、命の縮まる間が経った。
と、刀身が水の引くように、左斜めにス――ッと引かれた。
フラ――ッと主水は前へ出た。
瞬間、刀が小さく返った。
「ハッ」
途端に……
「カ――ッ!」という、雷霆さながらの掛声が――渾身の力を集めた声が、どこからともなく聞こえてきた。
「あッ」と主水は膝を曲げ、グタ――ッとばかりに地に坐わり、
「うむ」と陣十郎はよろめいて、二三歩タジタジと[#「タジタジと」は底本では「タヂタヂと」]後へ下った。
そうして次の瞬間には、闇の木立を潜り抜け、一散に麓の方へ走っていた。
3
声をかけたのは要介であった。
生地獄の光景を見ようとして、谷の下口まで行きかけると、番人によって遮られ、しかも鉄砲を向けられた。
飛道具には敵《かな》わない。
そこで避けて引っ返した。
一里あまり来た時であった。何とも云われない殺気刀気、そういうものが感じられた。
(何者かが何者かを殺そうとしている)
名人には別の感覚がある。
賭博に才のあるその道の名人――そういう名人には伏せた壺を通して、中の賽コロの目がわかる。
剣道の名人には自己に迫る殺気、そういうものなど当然わかり、あえて自己一身に迫るでなくとも、付近で行なわれる殺戮、殺傷、そういうものも感じられる。
それを要介は感じたのであった。
「切る奴を挫き、切られる奴を救おう」
こう要介は瞬間に思った。
思ったと同時に反射運動的に、
「カ――ッ!」と声をかけたのであった。
と、十数間のかなたから、木を潜って逃げて行く、葉擦れの音が聞こえてきた。
(逃げたな)と要介は直ぐに思った。
「セ、先生エ――ッ、ド、どうなされましたア――ッ」
主水が掛声に腰を挫かれ、地へベタベタと坐ったと同じく、これも掛声に腰を挫かれ、要介の背後の地へ坐った、杉浪之助が悲鳴をあげた。
「杉氏か、何という態《ざま》だ!」
「ナ、何という、ザ、態だと、セ、先生には、オ、仰せられても……」
「アッハハハハ、立ちな立ちな」
「恐ろしい目に逢いました」
云い云い浪之助は立ち上った。
「一体どうしたのでございます?」
「ナ――ニ、邪気を払ったまでさ」
「ははあ邪気を? ……が、邪気とは?」
「まあよろしい、いずれ話そう……ともかくも邪気は払って
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