あろう!
 と、嘉門にとらえられた。
 そうして今はこの有様だ!
 いよいよ数奇と云わざるを得ない。
(どうなとなれ、どうなろうとまま[#「まま」に傍点]よ)
 観念せざるを得ないではないか。
(が、この厭らしい馬飼の長に躰を穢される時節が来たら、舌噛み切って妾は死ぬ!)
 こう決心をしているのであった。
 そうしっかり決心している彼女は、外見《よそめ》には蝦蟇に狙われている、胡蝶さながらに憐れに不憫に、むごたらしくさえ見えるけれど、心境は澄み切り安心立命、すがすがしくさえあるのであった。
 短い沈黙が二人の間にあった。
「いかがでござりますな。澄江様」
 嘉門はネットリとやり出した。
「この老人の可哀そうな望み、かなえさせては下さりませぬかな。……いやもうこういう老人になると若い奇麗なご婦人などには、金輪際モテませぬ。そこで下等ではござりまするが、金の力で自由《まま》にします。……お見受けしたところ貴女《あなた》様は、武家の立派なお嬢様で、なかなかもちまして私などの、妾《めかけ》てかけ[#「てかけ」に傍点]になるような、そんなお方では決してない、ということは解《わか》っていますじゃ。……それだけに私の身になってみれば、自分のものに致したいので。……で、お願いいたしますじゃ。……可哀そうな老耄《おいぼ》れた老人を、功徳と思って喜ばせて下されとな。……その代わりお前さまが何を望もうと、金ずくのことでありましたら、ヘイヘイ何でも差し上げまする」
 またパクリと莨を喫った。


「なりませぬ」と澄江は云った。
 先刻からじっと辛棒して、黙って、聞いていた澄江であったが、この時はじめてハッキリと云った。
「貴郎《あなた》様のお心に従うこと、決して決してなりませぬ!」
 言葉数は少なかったが、毅然とした態度冷然とした容貌に、動かぬ心を現わして、相手を圧してそう云った。
「ふうむ」と嘉門は唸り声を上げた。
 勿論この女、烈女型で、尋常に口説いて落ちるような、そんな女ではあるまいと、そういうことは推《すい》していたが、今の返事とその態度とで、それがこっちの想像以上に、しっかり[#「しっかり」に傍点]しているということを瞬間看取したからであった。
 がぜん嘉門の様子が変わった。
 薄気味の悪い、惨忍な、しかも陰険執拗な、魔物めいた様子に一変した。
 それでいて言葉はいよいよ柔かく、
「それでは大変お気の毒ですが、貴女様には変わった所へ、一時おいでを願わねばならず……是非ともおいでを願わねばならず……一度まアそこへ行って来られてから、改めてゆるゆるご相談――ということに致しましょうのう」
 で、また莨をパクリと喫い、濛々と煙を吐き出した。
「何と申してよろしいか、貴女様がこれからおいでになる所、何と申してよろしいか。……どっちみち厭アなところでござる……どんな強情のジャジャ馬でも、一どそこへ叩っ込まれると、生れ変わったように穏しくなります……気の弱いお方は発狂したり、もっと気の弱いお方になると、さっさと自殺するようで。……さようさよう以前のことではあるが、お組の源女とかいう女芸人が、やはり強情で[#「強情で」は底本では「情強で」]そこへやられたところ、発狂――まあまあそれに似たような状態になりましたっけ……さて、そこで貴女様も、そこへおいでにならなければ……ならないことになりましたようで」
「どこへなと参るでござりましょう」
 澄江は冷然とそう云った。
 死を覚悟している身であった。
 何も恐れるものはない。
 苦痛! それとて息ある間だ! 死んでしまえば苦痛はない。
 澄江は冷然とし寂然としていた。
 嘉門はポンポンと手を拍った。
 と、次の間に控えていた、侍女が襖をソロリと開けた。
「権九郎に云っておくれ、送りの女が一人出来た。赤い提燈の用意をしなと」
 侍女は頷いて襖をしめた。

「あれ――ッ」という源女の声が、要介と浪之助とを驚かせたのは、それから間もなくのことであった。
 三人はこの時嘉門の主屋の、構えの外を巡りながら、なお逍遥《さまよ》っていたのであった。
「行きます、おお赤い提燈が!」
 指さしながら源女が叫んだ。
 極度の恐怖がその声にあった。
「あそこへあそこへ人を送る火が! 地獄へ、ねえ、生地獄へ! ……妾《わたし》のやられた生地獄へ! ……おおおお誰か今夜もやられる! ……可哀そうに可哀そうに! ……そうです妾も赤い提燈に、あんなように道を照らされ、馬へ、裸馬へくくりつけられ、そこへやられたのでございます!」


「追おう!」
 要介が断乎として云った。
「送られる人間を取り返そう!」
「やりましょう!」と浪之助も云った。
 夜の暗さをクッキリ抜いて、木立の繁みに隠見して、特に血のような赤い色の、小田原提燈が果実のように揺れて、山の手の方へ行くのが見えた。
 三人は後を追った。
 が、その一行に近寄って見て、これは迂闊に力で襲っても、勝目すくなく危険だと思った。
 というのは一頭の裸馬に、男か女かわからなかったが、一人の人間をくくりつけ、それへ油単《ゆたん》を上から冠せた、そういう人と馬とを囲繞《いじょう》し、十数人の荒くれ男が、鉄砲、弓、槍などを担いで、護衛して歩いているからであった。
(飛道具には適わない)
 三人ながらそう思った。
 で、要介は浪之助に、
「どこまでもこっそり後を尾けて、その行方を確かめよう。そうしていい機会が到来したら、切り散らして犠牲者を奪い取ってやろう」
 こう耳元で囁いた。
「それがよろしゅうございます」
 浪之助も[#「浪之助も」は底本では「浪人之助も」]そう云った。

 澄江を生地獄へ送り出した後の、嘉門の豪奢な主家の部屋には、逸見多四郎が端座していた。
 想う女を生地獄へ送った。――そんな気振など微塵もなく、嘉門は機嫌よく愛想笑いをして、多四郎との閑談にふけっていた。
 処士とはいっても所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分として、丁寧にあつかわれる立派な身分、ことには自分が贔屓にしている、高萩の猪之松の剣道の師匠――そういう逸見多四郎であった。傲岸な嘉門も慇懃丁寧に、応待しなければならなかった。
 牧馬の話から名所旧蹟の話、諸国の風俗人情の話、そんな話が一渡り済んで、ちょっと話が途絶えた時、何気ない口調で多四郎は云った。
「秩父の郡小川村、逸見様庭の桧の根、むかしはあったということじゃ……云々と云う昔からの歌が秩父地方でうたわれ居ります。この歌の意味は伝説によれば、源|頼義《よりよし》[#「頼義《よりよし》」は底本では「義頼《よしより》」]、その子|義家《よしいえ》、奥州攻めの帰るさにおいて、秩父地方に埋めました黄金、それにまつわる歌とのこと、しかるにこの歌の末段にあたり※[#歌記号、1−3−28]今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の――云々という、そういう文句がござります由、思うにこれはその黄金が、その素晴らしい馬飼のお手に、保存され居るということであろうと……」
「しばらく」と不意に嘉門は云った。
 それから皮肉の笑い方をしたが、
「ははあそれで逸見様には、その黄金を手に入れるべく、当屋敷をお訪ね下されたので?」
「率直に申せばその通り、千、五百の大馬飼は、貴殿以外にはござらぬからな」
「御意で。……が、そうとありますれば、いささかお気の毒に存ぜられまする」
「何故でござるな。それは何故で?」
「なぜと申してそうではござらぬか、そのような莫大な黄金を、私保存いたし居りますれば、決して決して何人にも、お渡しすることではござりませぬ」
「それはもうもう云うまでもない儀、が、拙者といたしましては、そこに少しく別の考えが……」

10[#「10」は縦中横]
「別の考え? 何でござるかな?」
「貴殿がたしかにその黄金を、現実に保存され居るなら、何で拙者その貴殿より、その黄金取りましょうや。……が、もしも貴殿においても、黄金の在り場所的確に知らず、ひそかに探し居らるるようなら……」
「なるほど、これはごもっとも。そうあるならば貴郎《あなた》様と私、力を集めて探し出そうと覚し召し、参られたので?」
「さよう、ざっとその通りでござる」
「これは事件が面白くなった。……が、さて何と申し上げてよいやら」
 嘉門はここで沈黙してしまった。
 妙に息詰まる真剣の気が、二人の間に漂っている。
 やがて嘉門がポツリポツリと云った。
「歌にありまするその馬飼は、たしかに私にござります。そうして歌にありますように、私の屋敷に領地内に、ある時代にはその黄金、ありましたそうでござります。……その黄金ありましたればこそ、馬鹿らしいほどの繁栄を来たし、今このように広い領地を、持つことが出来て居りますので。そうでなくては馬飼風情、いかにあくせく[#「あくせく」に傍点]働きましたところで、とてもとても今日のような。……で私はその黄金を、巧みに利用し財《たから》を積んだところの、祖先に対して有難やと、お礼申して居りまする次第で」
「とそう云われるお言葉から推せば、今日においてはその黄金、すでにお手にはないご様子……」
「さあそれとてそうとも否とも、ちと私としては申しかねますので……」
「これは奇怪、はなはだ曖昧!」
「へいへい曖昧でござりますとも」
「方角を変えてお尋ねいたす。例の歌の末段に※[#歌記号、1−3−28]|秣《まぐさ》の山や底無しの、川の中地の岩窟《いわむろ》にと、こういう文句がござりまするが、そこに大方その黄金、埋没されて居りたるものと、この拙者には思われまするが、そのような境地が領内に……?」
「へいへいたしかにござります」
「しからばそこへご案内を……」
「駄目で!」
「なぜ?」
「命が無い!」
「命が無いとな?」
「生地獄ゆえ!」
「…………」
「アッハッハッ、地獄々々! そこは恐ろしい生地獄! そこへ行ったら命が無い! 有っても人間発狂する! アッハッハッ発狂する! ……が、今夜も可哀そうに、女が一人送られましたよ。さようさようその生地獄へ!」
 こう云うと嘉門は惨忍酷薄、洵《まこと》女の生血を飲み、肉を喰らったといわれている、伝説の大江山の酒顛童子、それさながらの表情をして、ぐっと多四郎を睨むように見た。
 さすがの多四郎も妖怪さながらの、嘉門の表情態度に搏たれ、言語ふさがり沈黙した。
 で、またも息詰まるような気が、部屋を圧し人を圧した。
 が、ややあって井上嘉門は、謎のような言葉でこう云った。
「あの黄金はそれ以前に、あの歌にうたわれて居りますように、秩父の郡小川村の、逸見《へんみ》様のお庭の桧の根方に、――即ち貴郎様のお庭の中に、埋没されて居りましたはず。……ひょっとかするとその黄金また逸見様のお庭へ帰り……」

11[#「11」は縦中横]
「何を馬鹿な」と多四郎は笑った。
「拙者の屋敷にその黄金、今に埋もれて居りますなら、何のわざわざこのようなところへ……」
「いやいや」と嘉門は云った。
「逸見様は幾軒もござります」
「…………」
「高名で比較的近い所では、尾張にあります逸見三家……」
「おおなるほど逸見三家!」
 名古屋に一軒、犬山に一軒、知多に一軒、都合三軒、いずれも親戚関係で、逸見姓を宣《となう》る大大尽があり、総称して尾張の逸見三家と云い、特殊の尊称と疑惑とを、世間の人から持たれていた。
 金持ちであるから尊敬される! これは当然の事として、疑惑というのは何だろう?
 尾張の大商人大金持といえば、花井勘右衛門をはじめとして、九十八軒の清洲越衆《きよすこえしゅう》、その他尾州家からお扶持をいただく、小坂新左衛門他十二家あって、それらの人々はいずれも親しく、往来をし交際《つきあ》っていたが、逸見三家だけは交際せず、三家ばかりで往来し、他の金持は尾張家に対し、何等かの交渉を持っていて、御用達、三家衆、除地衆、御勝手ご用達、十人衆、等々という、名称家格を持っていたが、逸見三家ばかりは尾張家と、何等の交渉も持っていなかった。
 これが疑惑される点なのである。
「おお
前へ 次へ
全35ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング