見て置こうと、こう思って出て来たのであった。
林のような植込みの中に、ポツリポツリと幾軒とない、立派な屋敷が立っていて、もう夜も相当更けていたからか、いずれも戸締り厳重にし、火影など漏らしてはいなかった。
と、三人の歩いて行く行手を、二人の武士が歩いていた。
この家へ泊まっている客であろう。
そう思って要介は気にも止めなかった。
が、そこは人情で、自分もこの家の客であり、先方の二人も客であるなら、話して見たいとこんなように思い、その後をソロソロとつけ[#「つけ」に傍点]て行った。
植込を抜け幾軒かの屋敷の、前を通ったり横を通ったりして、大略《おおよそ》五六町も歩いたであろうか、その時月夜の空を摩して、一際目立つ大屋敷が、その屋敷だけの土塀を巡らし、その屋敷だけの大門を持って、行手に堂々と聳えていた。
(これが嘉門の住居だな。いわば本丸というやつだ。いやどうも広大なものだ)
要介はほとほと感に堪えた。
4
先へ行く二人の客らしい武士も、その屋敷の広大なのに、感嘆をしているのであろう、しばし佇んで眺めていたが、土塀に添って右の方へ廻った。
要介たちも右の方へ廻った。
と、二人のその武士達は、土塀の前の一所へ立って、しばらく何やら囁いていたが、やがて土塀へ手をかけると、ヒラリと内へ躍り込んだ。
「おや」
「はてな」
と云い要介も、浪之助も声をあげた。
「先生、あいつら変ですねえ」
「客ではなくて泥棒かな」
二人は顔を見合わせた。
と、先刻から物も云わず、熱心に四辺《あたり》を見廻したり、深く物思いに沈んだりして、様子を変えていたお組の源女が、この時物にでも憑かれたような声で、
「おお妾《わたし》は思い出した。この屋敷に相違ない! 妾が以前《まえかた》送られて来て、酒顛童子のようなお爺さんに、恐ろしい目に逢わされた屋敷! それはここだ、この屋敷だ! ……この屋敷だとするとあの[#「あの」に傍点]地獄は――地獄のように恐ろしく、地獄のようにむごたら[#「むごたら」に傍点]しく、……※[#歌記号、1−3−28]まぐさの山や底無しの、川の中地の岩窟《いわむろ》の……その地獄、その地獄は、どちらの方角だったかしら? ……もう解《わか》る! 直ぐ解る! ……でもまだ解らない、解らない! ……そこへ妾はやられたんだ! そこで妾は気絶したんだ! ……」
云い云い源女は右を指さしたり、左を指さしたりした。
土塀を乗り越えた二人の武士、それは主水と陣十郎とであった。鳥居峠から駕籠に乗り、薮原から山へかかり、この日この屋敷へ来た二人であった。
彼等二人の主たる目的は、井上嘉門に攫《さら》われた澄江を、至急に取り返すことにあった。
遅れてもしも澄江の躰に――その貞操に傷でもついたら、取り返しのつかぬことになる。
そこでこの屋敷へ着くや否や、負傷の躰も意に介せず、陣十郎は陣十郎で、その奪還の策を講じ、主水は主水で策を講じたが、これと云って妙案も浮かんで来ず、こうなっては仕方がない、嘉門の主屋へ忍び込み、力に訴えて取り返そうと、さてこそ揃って忍び込んだのであった。
忍び込んで見てこの主屋だけでも洵《まこと》に広大であることに、驚かざるを得なかった。
百年二百年経っているであろうと、そう思われるような巨木が矗々《すくすく》と、主屋の周囲に聳えていて、月の光を全く遮り、四辺《あたり》を真の闇にしてい、ほんの僅かの光の縞を、木間からこぼしているばかりであった。ところどころに石燈籠が道標《みちしるべ》のように立っていて、それがそれのある四辺だけをぽっと明るくしているばかりであった。
主屋の建物はそういう構えの、遥か向こうの中央にあったが、勿論雨戸で鎧われているので、燈火など一筋も漏れて来なかった。
と、拍子木の音がした。
夜廻りが廻って来たらしい。
二人は木立の陰へ隠れた。
拍子木の音は近付いて来た。
と、不意に足を止めたが、
「これ、誰じゃ、そこにいるのは?」
一踴!
「わッ」
一揮!
寂寥!
「おい、陣十郎切ったのか?」
「いや峯打ちだ。殺してはうるさい」
5
なお二人は先へ進んで行った。
と、行手から男女らしいものが、話しながら来る気勢《けはい》がした。
そこで二人は木陰へかくれた。
男女の声は近寄って来たが、数間へだてた地点まで来ると、
「其方《そなた》あちらへ……静かにしておいで。……ちと変だ……何者かが……」
こういう男の声がして、しばらくそれからヒッソリしていたが、やがておちついた歩き方で、歩み寄って来る気勢がし、
「これ誰じゃ、そこに居るのは?」と咎める威厳のある声がした。
主水も陣十郎も物云わず、息を殺してじっと[#「じっと」に傍点]していた。
「賊か、それとも……賊であろう。……身遁してやる、早く立ち去れ」
声の様子でその人物が、武士であることには疑いなかった。
主水の耳へ口を寄せ、陣十郎は囁いた。
「俺がやる。お前は見て居れ……ちと彼奴《あいつ》手強いらしい」
「うむ」と主水は頷いた。
陣十郎はソロッと出た。
既に刀は抜き持っている。
それを暗中で上段に構え、一刀に討ち取ろうと刻み足して進んだ。
「来る気か」と先方の男が云った。
「可哀そうに……あったら命を……失わぬ先に逃げたがよかろう」
あくまでも悠然とおちついていた。
陣十郎はなお進んだ。
勿論返辞などしなかった。
「そうか」と先方の武士が云った。
「どうでも来る気か、止むを得ぬの。……では来い!」と云って沈黙した。
疾風《はやて》! 宛然《さながら》! 水品陣十郎! 二つになれと切り込んだ。
が、春風に靡く柳條! フワリと身を反わした一瞬間、引き抜いた刀で横へ払った武士!
陣十郎はあやうく飛び退き、大息を吐き身を固くした。
何たる武士の剣技ぞや!
品位があってふくらみ[#「ふくらみ」に傍点]があって、真に大家の業であった。
(ふ――ん)と陣十郎は感に堪え、また恐ろしくも思ったが、
(ナーニ、こうなりゃこっちも必死、必勝の術で「逆ノ車」で……)
見やがれとばかり中段に構え、闇の大地をジリジリと[#「ジリジリと」は底本では「ヂリヂリと」]刻み、除々にせり[#「せり」に傍点]詰め進んで行ったが、例の如くに水の引くように、スーッと刀を左斜めに引き、すぐに柳生の車ノ返シ、瞬間を入れず大下手切り!
が、
鏘然!
太刀音があって……
美事に払われ引っ外され、続いて叫ぶ武士の声がした。
「『逆ノ車』! さては汝《おのれ》、陣十郎であったか、水品《みずしな》陣十郎! ……拙者は逸見多四郎じゃ! ……師に刃向こうか、汝悪逆!」
「あッ! ……しまった! ……主水逃げろ!」
木間をくぐって盲目滅法に、逃げ出した陣十郎の後につづき、主水も逃げて闇に没した。
「まあ陣十郎さんに主水さん!」
すぐに女の驚きの声が、逸見多四郎の背後《うしろ》から聞こえた。
「お妻殿ご存じか?」
「はい。……いいえ。……それにしても……」
「それにしても、うむ、それにしても、あの恐ろしい悪剣を……『逆ノ車』をどうして破ったか?」
呟き多四郎は考え込んだ。
(それにしても)とお妻も考えた。(どうして陣十郎と主水さんが、一緒になんかいたのだろう?)
6
敵同士の主水と陣十郎が、一緒にいるということが、お妻には不思議でならなかった。
(主水さん、それでは人違いであろうか?)
そうとすれば何でもなかった。
世には同名の異人がある。
人違いであろう、人違いであろう!
そう思うとお妻にはかえって寂しく、やはり今の主水さんが、恋しい主水さんであってくれて、自分の身近にいてくれる――そうあって欲しいように思われるのであった。
恐ろしいは陣十郎の居ることであった。
(逢ったら妾ア殺されるだろう)
追分宿の乱闘で、殺されようとして追い廻されたことが、悪寒となって思われて来た。
ポンと多四郎は手を拍った。
「解った! 闇だからよかったのだ。……それで『逆ノ車』が破れたのだ。……では昼なら? 昼破るとすると?」
じっと考えに打ち沈んだ。
「ナ――ンだ」とややあって多四郎は云った。「ナ――ンだ、そうか、こんなことか! ……こんな見易い理屈《こと》だったのか! ……よし、解った、これで破った、陣十郎の『逆ノ車』俺においては見事に破った!」
主屋に招じ入れられたが、嘉門とは未だ逢わなかった。退屈なので夜の庭の、様子でも見ようとしてお妻をつれて、ブラリと出て来た多四郎であった。
それが偶然こんなことから、日頃破ろうと苦心していた、「逆ノ車」の悪剣を易々と破ることが出来たのである。
そのコツ法を知ったのである。
(よい事をした、儲け物だった)
そう思わざるを得なかった。
嘉門が奥の豪奢な部屋で、澄江を前にしネチネチした口調で、この夜この時話していた。
「不思議なご縁と申そうか、変わったご見と申そうか、高萩でお逢いしたお前さまと、追分宿でまたお逢いし、とうとう私の部屋まで参られ、こうゆっくりとお話が出来る、妙なものでござりますな」
ネチリネチリと云うのであった。
古法眼《こほうがん》の描いた虎溪三笑、その素晴らしい六枚折りの屏風が無造作に部屋の片隅に、立てられてある一事をもってしても、部屋の豪奢が知れようではないか。
座には熊の皮が敷きつめられてあり、襖の取手の象嵌などは黄金と青貝とで出来ていた。
「それにいたしましても高萩では、とんだ無礼いたしましたのう。ハッ、ハッ、とんだ無礼を! ……が、あいつは正直のところ、私の本意ではなかったので。いかに私が田夫野人でも、何で本気で婦人に対し、あのような所業に及びましょうぞ。あれは高萩の猪之松どんの乾児衆のやった仕事なので。ただ私はゆきがかりで、そいつをご馳走にあずかろうと、心掛けたばかりでございますよ。が、それさえ不所存至極! そこで平にあやまります。何卒ご用捨下さりませ……さてこれで以前《むかし》のことは、勘定済みとなりました。次は将来《これから》のご相談で。……ところでちょっとご相談の前に、申さねばならぬことがありますのでな。……」
7
ここで嘉門は莨《たばこ》を喫《の》んだ。
持ち重りするような太い長い、銀の煙管《きせる》を厚い大きい、唇へくわえてパクリと喫《す》い、厚い大きい唇の間から、モクリモクリと煙を吐いた。
どうしても蝦蟇が空に向かって、濛気を吐くとしか思われない。
「何かと云いますに私という人間、一旦やろうと思い立った事は、必ずやり通すということで!」
うまそうに莨を一喫みすると、そう嘉門はネットリと云った。
さよう、嘉門はネットリと云った。
が、そのネットリとした云いぶりは、尋常一様の云いぶりではなく、馬飼の長、半野蛮人の、獰猛敢為の性質を見せた、ゾッとするような云いぶりなのであった。
「では私今日只今、どんなことをやろうと思っているかというに、澄江様とやらいうお前さまを、よう納得させた上で、私の心に従わせる! ……ということでござりますじゃ」
云って嘉門は肩にかかっている、その長髪をユサリと振り、ベロリと垂れている象のような眼を、カッと見開いて澄江を見詰めた。
澄江はハ――ッと息を飲んだ。
その澄江はもう先刻《さっき》から、観念と覚悟とをしているのであった。
思えば数奇の自分ではある! ……そう思われてならなかった。
上尾街道で親の敵《かたき》と逢った。討って取ろうとしたところ、博労や博徒に誘拐《かどわか》された。そのあげく[#「あげく」に傍点]に馬飼の長の、人身御供に上げられようとした。と敵に助けられた。親の敵の陣十郎に! ……これだけでも何という、数奇的の事件であろう。しかもその上その親の敵に、親切丁寧にあつかわれ、同棲し旅へまで出た。夫婦ならぬ夫婦ぐらし! 数奇でなくて何であろう。
追分宿のあの騒動!
義兄《あに》であり恋人であり、許婚《いいなずけ》である主水様に、瞬間逢い瞬間別れた!
数奇でなくて何で
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