主水は思った。
が、直ぐに思い出されたことは、陣十郎が以前から、澄江を恋していたことであった。
(いまだに恋しているのかな)
こう思うと不快な気持がした。
それと同時に陣十郎の情婦? お妻のことが思い出された。
卒然として口へ出してしまった。
「お妻殿はどうして居られることやら」
「ナニお妻?」と驚いたように、陣十郎は主水を見詰めた。
6
「お妻! ふふん、悪婆毒婦! あんな女も少ないよ」
やがて陣十郎は吐き出すように云った。
追分宿の夜の草原で、後口の悪い邂逅をした。――そのことを思い出したためであった。
「そうかなア」と主水は云ったが主水にはそう思われなかった。
彼女の執拗なネバネバした恋慕、どこまでも自分に尽くしてくれた好意――一緒にいる中は迷惑にも、あさましいものにも思われたが、さてこうして離れて見れば、なつかしく恋しく思われるのであった。
(が、そのお妻とこの俺とが、夫婦ならぬ夫婦ぐらし、一緒に住んでいたと知ったら、陣十郎は何と思うであろう?)
夫婦のまじわり[#「まじわり」に傍点]をしなかったといかに弁解したところで、若い女と若い男とが、一緒に住んでいたのである。清浄の生活など何で出来よう、肉体的の関係があったと、陣十郎は思うであろう――主水にはそんなように思われた。
それが厭さに今日まで、主水は陣十郎へ明かさないのであった。
とはいえいずれは明かさなければならない――そこで奈良井の旅籠屋でも、聞いて貰いたいことがある、云わなければならないことがあると、そういう意味のことを云ったのであった。
似たような思いにとらえられているのが水品陣十郎その人であった。
澄江と夫婦ならぬ夫婦ぐらし、それをして旅をさえつづけて来た。が、そう打ちあけて話したところで、肉体のまじわり[#「まじわり」に傍点]なかったと、何で主水が信じよう。暴力で思いを遂げたぐらいに、まず思うと思ってよい。
打ち明けられぬ! 打ち明けられぬ!
で、今だに打ち明けないのであったが、早晩は話してしまわねば、自分として心苦しい。そこでこれも奈良井の宿で、聞いて貰いたいことがある、話さねばならぬことがあると、主水に向かって云ったのであった。
二人はしばらく黙っていた。
互いに一句云ったばかりで、澄江について、お妻に関して、もう云おうとはしなかった。
触れることを互いに避けているからである。
木曽福島へやって来たものの、逸見多四郎は馬市そのものに、何の関心も執着もなく、執着するところは埋ずもれた巨宝、それを手に入れることであった。
「お妻殿」と旅籠の座敷で多四郎は優しく微笑して云った。
「木曽の奥地西野郷へ、行って見ようではござらぬか」
「はいはいお供いたしますとも」
お妻は嬉しそうにそう云った。
「其方《そなた》は健気で話が面白い。同行すると愉快でござろうよ」
「まあ殿様、お世辞のよいこと」
「東馬、其方《そち》も行くのだぞ」
「は、お供いたします」
こんな塩梅《あんばい》に二人を連れて、多四郎は福島の宿を立った。
奥地の木曽の風景を探る。こう二人には云ったものの、その実は奥地の西野郷に、馬大尽事井上嘉門がいる。そこに巨宝があるかもしれない。有ったらそれを手に入れてと、それを目的に行くのであった。
木曽川を渡ると渡った裾から、もう険しい山路であった。
急ぐ必要の無い旅だったので、三人は悠々と辿って行った。
馬大尽の屋敷
1
その同じ日のことであった、旅籠《はたご》尾張屋の奥の部屋で、秋山要介が源女と浪之助とへ、
「さあ出立だ。いそいで用意! 西野郷へ行くのだ、西野郷へ行くのだ!」
急き立てるようにこう云った。
要介は源女を取り返して以来、そうして源女と福島へ来て以来、源女の口からこういう事を聞いた、
「妾《わたくし》だんだん思い出しました。大森林、大渓谷、大きな屋敷、無数の馬、酒顛童子のような老人のいた所、そこはどうやら福島の、奥地のように思われます」と。
それに福島へ来て以来、林蔵の[#「林蔵の」は底本では「林臓の」]乾児《こぶん》をして逸見《へんみ》多四郎の起居を、絶えず監視させていたが、それから今しがた通知があった。逸見多四郎が供二人を連れて、西野郷さして発足したと。
そこでこんなように急き立てたのであった。
三人は旅籠を出た。
(西野郷には馬大尽事、井上嘉門という大金持が、千頭ほどの馬を持って、蟠踞《ばんきょ》[#ルビの「ばんきょ」は底本では「はんきょ」]しているということだ。それが源女のいう所の、酒顛童子のような老人かも知れない)
要介はそんなことを思った。
さて三人は歩いて行く。
西野郷は今日の三岳村と、開田村とに跨がっており、木曽川へ流れ込む黒川の流域、貝坪、古屋敷、馬橋、ヒゲ沢渡、等々の小部落を点綴《てんてつ》したところの、一大地域の総称であって、その中には大森林や大渓谷や瀧や沼があり、そのずっと奥地に井上嘉門の、城砦のような大屋敷が、厳然として建っているのであった。
今日の歩みをもってすれば、福島から西野郷へは一日で行けるが、文政年間の時代においては、二日の日数を要するのであった。
分け上る道は険しかったが、名に負う木曽の奥地の秋、その美しさは類少なく、木々は紅葉し草は黄ばみ、木の実は赤らみ小鳥は啼きしきり、空は澄み切って碧玉を思わせ、驚嘆に足るものがあり、そういう境地を放牧されている馬が、あるいは五頭あるいは十頭、群をなし人を見ると懐かしがって、走って来ては鼻面を擦りつけた。
「妾《わたし》、だんだん思い出します」
源女は嬉しそうに云い出した。
「たしかに妾こういう所を、山駕籠に乗せられ揺られながら、以前に通ったように思います」
「そうでござるか、それは何より……源女殿には昔の記憶を、だんだん恢復なされると見える」
そう云って要介も喜んだ。
歩きにくい道を歩きながら、三人は奥へ進んで行った。
その日も暮れて夜となった。
その頃要介の一行は、一軒の杣夫《そま》の家に泊まっていた。
このような土地には旅籠屋などはなく、旅する人は杣夫や農夫に頼み、その家へ泊まることになっていた。
大きな囲炉裏を囲みながら、要介は杣夫の家族と話した。
「西野郷の馬大尽、井上嘉門殿のお屋敷は、大したものでござろうの?」
「へえ、そりゃア大したもので、ご門をお入りになってから、主屋の玄関へ行きつくまでに、十町はあるということで」
「それはどうも大したものだな」
「嘉門様お屋敷へ参られますので?」
「さよう、明日《あした》行くつもりじゃ」
「あそこではお客様を喜ばれましてな、十日でも二十日でも置いてくれます」
2
「大家のことだからそうであろう」
「幾日おいでになろうとも、ご主人のお顔を一度も見ない、……見ないままで帰ってしまう……そういうことなどザラにあるそうで」
「ほほう大したものだのう」
翌日一行は杣夫の家を立ち、その日の夜には要介達は、井上嘉門家の客になっていた。
客を入れるために造ってある、幾軒かある別棟の家の、その一軒に客となっていた。
想像以上噂以上に、嘉門の屋敷が豪壮であり、その生活が雄大なので、さすがの要介も胆を潰した。
いうところの大家族主義の典型《てんけい》のようなものであった。
西野郷の井上嘉門と、こう一概に人は云っていたが、行って見れば井上嘉門の屋敷は、西野郷からは更に数里、飛騨の国に寄っている、ほとんど別個の土地にあり、その土地から西野郷へまで、領地が延びているのだと、こう云った方がよいのであった。
山の大名!
まさにそうだ。
周囲三里はあるであろうか、そういう広大な地域を巡って、石垣と土牆《どしょう》と巨木とで、自然の城壁をなしている(さよう将に城壁なのである)その中に無数の家々があり田畑があり丘があり、林があり、森があり、川があり、沼があり、農家もあれば杣夫の家もあり、空地では香具師《やし》が天幕《テント》[#ルビの「テント」は底本では「テン」]を張って見世物を興行してさえいた。
しかもそれでいてその一廓は、厳然として嘉門の屋敷なのであった。
つまり嘉門の屋敷であると共に、そこは一つの村であり、城廓都市であるとも云えた。
馬や鹿や兎や狐や、牛や猿などが、林や森や、丘や野原に住んでいた。
到る所に厩舎《うまや》があった。
乞食までが住居していた。
嘉門の住んでいる主屋なるものは、一体どこにあるのだろう?
ほとんど見当がつかない程であった。
が、その屋敷はこの一劃の奥、北詰の地点にあるのであって、その屋敷にはその屋敷に属する、石垣があり門があった。
要介に杣夫が話した話、「ご門をお入りになってから、主屋の玄関へ行きつくまでに、十町はあるということで」と。
これはこの門からのことなのであった。
が、総体の嘉門の屋敷、周囲三里あるというこの屋敷の、雄大極まる構えと組織は、何も珍しいことではなく、昭和十七年の今日にあっても、飛騨の奥地や信州の奥地の、ある地方へ行って見れば、相当数多くあるのである。新家《しんや》とか分家《ぶんけ》とかそういう家を、一つ所へ八九軒建て、それだけで一郷を作り、その家々だけで団結し、共同の収穫所《とりいれしょ》や風呂などを作り、祭葬冠婚の場合には、その中での宗家へ集まり、酒を飲み飯を食う。
白川郷など今もそうである。
で、嘉門家もそれなのであるが、いかにも結構が雄大なので、驚かされるばかりなのであった。
宗家の当主嘉門を頭に、その分家、その新家、分家の分家、新家の新家、その分家、その新家――即ち近親と遠縁と、そうしてそういう人々の従僕――そういう人々と家々によって、この一劃は形成され、自給自足しているのであった。
要介達の泊まっている家は、宗家嘉門の門の中の平屋建ての一軒であった。
さてその夜は月夜であった。
その月光に照らされて、二梃の旅駕籠が入って来た。
3
二梃の駕籠の着けられた家も、客を泊めるための家であったが、要介達の泊まっている家とは、十町ほども距たっていた。
主水と陣十郎とが駕籠から出た。
そうして家の中へ消えて行った。
こういう大家族主義の大屋敷へ来れば、主人の客、夫婦の客、支配人の客、従僕の客、分家の客、新家の客と、あらゆる客がやって来るし、ただお屋敷拝見とか、一宿一飯の恩恵にとか、そんな名義で来る客もあり、客の種類や人品により、主人の客でも主人は逢わず、代わりの者が逢うことがあり、従僕の客でも気が向きさえすれば、主人が不意に逢ったりして、洵《まこと》に自由であり複雑であったが、感心のことには井上嘉門は、どんな粗末な客であっても、追い返すということはしなかったそうな。有り余る金があるからであろうが、食客を好む性質が、そういうことをさせるのであった。
要介は心に思うところあって、
「有名なお屋敷拝見いたしたく、かつは某《それがし》事武術修行の、浪人の身にござりますれば、数日の間滞在いたし、お家来衆にお稽古つけたく……」
とこういう名目で泊まり込み、陣十郎と主水とは、
「旅の武士にござりまするが、同伴の者この付近にて、暴漢数名に襲われて負傷、願わくば数日滞在し、手あて[#「あて」に傍点]致したく存じます」
と、こういう口実の下に泊まったのであった。
陣十郎は猪之松の屋敷で、嘉門を充分知って居り、知って居るばかりか嘉門を襲った。――そういう事情があるによって、絶対に嘉門には逢えなかった。
顔を見られてさえ一大事である。
で、顔は怪我したように、繃帯で一面に包んでいた。
逸見多四郎が堂々と、
「拙者は武州小川の郷士、逸見多四郎と申す者、ご高名を知りお目にかかりたく、参上致しましてござります」
と、正面から宣《なの》って玄関へかかり、丁寧に主屋へ招じ入れられたのも、同じ日のことであり、お妻も東馬も招じ入れられた。
さて月のよい晩であった。
要介は源女と浪之助を連れてブラリと部屋から戸外へ出た。
この広大の嘉門の屋敷の、大体の様子を
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