?」
「悪い、駄目だ、起きられぬ」
床を敷かせ、枕に就き、幽かに唸っていた陣十郎は、そう云って残念そうに歯を噛んだ。
「これではお前と立ち合い出来ぬよ」
2
「まあ可《い》い、ゆっくり養生するさ」
主水はそう云って気の毒そうに見た。
「快癒してから立ち合おう」
「それよりどうだな」と陣十郎は云った。
「こういう俺を討って取らぬか」
「そういうお前を討つ程なら、あの時とうに討って居るよ」
「あの時討てばよかったものを」
「死人を切ると同じだったからな」
「それでも討てば敵討《かたきうち》にはなった」
「誉にならぬ敵討か」
「ナーニ見事に立ち合いまして、討って取りましたと云ったところで、誰一人疑う者はなく、誉ある復讐ということになり、立身出世疑いなしじゃ」
「心が許さぬよ、俺の良心が」
「なるほどな、それはそうだろう。……そういう良心的のお前だからな」
「お前という人間も一緒に住んで見ると、意外に良心的の人間なので、俺は少し驚いている」
「ナーニ俺は悪人だよ」
「悪人には相違ないさ。が、悪人の心の底に、一点強い善心がある。――とそんなように思われるのさ」
「そうかなア、そうかもしれぬ。いやそうお前に思われるなら、俺は実に本望なのだ。……俺は一つだけ可《い》いことをしたよ。……いずれゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]話すつもりだが」
「話したらよかろう、どんなことだ?」
「いやまだまだ話されぬ。もう少しお前の気心を知り、そうして俺の性質を、もう少しお前に知って貰ってからそうだ知って貰ってからでないと、話しても信じて貰われまいよ」
「実はな」と主水も真面目の声で、
「実はな俺もお前に対し、その中《うち》是非とも聞いて貰いたいこと、話したいことがあるのだよ。が、こいつも俺という人間を、もっとお前に知って貰ってからでないと……」
「ふうん、変だな、似たような話だ。……が、俺はお前という人間を、かつて疑ったことはないよ。俺のような人間とはまるで[#「まるで」に傍点]違う。お世辞ではない、立派な人間だ」
「お前だってそうだ、可《い》いところがある」
二人はしばらく黙っていた。
木曽街道の旅籠の部屋だ、襖も古び障子も古び、畳も古び、天井も古び、諸所に雨漏りの跡などがあって、暗い行燈でそれらの物象が、陰惨とした姿に見えていた。
乱れた髷、蒼白の顔、――陣十郎のそういう顔が、夜具の襟から抽《ぬきん》でている。
それは化物絵を思わせるに足りた。
「おい」と陣十郎は感傷的の声で、
「俺とお前は血縁だったなア」
「…………」
主水は無言で頷いた。
「俺とお前は従々兄弟《またいとこ》だったんだなア」
「…………」
「だから互いに敵同志になっても、……」
「…………」
「こんな具合に住んでいられるのだなア」
「そうだよ」と主水も感傷的に云った。
「そうだよ俺達は薄くはあるが、縁つづきには相違ないのだ」
ここで又二人は黙ってしまった。
行燈の光が暗くなった。
燈心に丁字でも立ったのであろう。
「寒い」と陣十郎は呟いた。
「木曽の秋の夜……寒いのう。……風邪でも引いては大変だ。わしの夜具を掛けてやろう」
主水は云って自分の部屋へ立った。
3
追分宿の大乱闘、その時仆れた陣十郎を目つけ、主水は討って取ろうとしたが、気絶している人間は討てぬ。で蘇生させたところ、陣十郎は無数の負傷、立ち上る気力もなくなっていた。
しかし彼は観念し、草に坐って首差し延べ、神妙に討って取られようとした。
これがかえって主水の心を、同情と惻隠とに導いて、討って取ることを出来なくした。
で、介抱さえしてやることにした。
旅籠へ連れて来て医師にかけた。
それにしてもどうしてそんな負傷者を連れて、福島などへ行くのであろう?
こう陣十郎が云ったからである。
「井上嘉門という馬大尽が、博徒猪之松の群にまじり、あの夜乱闘の中にいた。そこへ澄江殿が逃げ込まれた。と、嘉門が駕籠に乗せ、福島の方へ走らせて行った。その以前からあの嘉門め、澄江殿に執着していた。急いで行って取り返さずば、悔いても及ばぬことになろう。……これにはいろいろ複雑の訳と、云うに云われぬ事情とがある。そうして俺はある理由によって、その訳を知っている。が今は云いにくい。ただ俺を信じてくれ。俺の言葉を信じてくれ。そうして一緒に木曽へ行って、澄江殿を取り返そう」
――で、二人は旅立ったのであった。
主水にしてからが澄江の姿を、追分の宿で見かけたことを、不思議なことに思っていた。馬大尽井上嘉門のことは、上尾宿の旅籠の番頭から聞いた。
しかし、澄江と嘉門との関係――何故嘉門が駕籠に乗せて、澄江をさらって行ったかについては、窺い知ることが出来なかった。
陣十郎は知っているらしい。
詳しい事情を知っているらしい。
が、その陣十郎はどうしたものか、詳しく話そうとはしないので、強いて訊くことも出来なかった。
とはいえ澄江がそんな事情で、嘉門に連れられて行ったとすれば、急いで木曽へ出張って行って、澄江を奪い返さなければならない。
――で、旅立って来たのである。
二人は翌日山形屋を立って、旅駕籠に身を乗せて、福島さして歩ませた。
鳥居峠へ差しかかった。
ここは有名な古戦場で、かつ風景絶佳の地で、芭蕉翁なども句に詠んでいる。
[#ここから3字下げ]
雲雀《ひばり》より上に休らう峠かな
[#ここで字下げ終わり]
木曽の五木と称されている、杜松《ねず》や扁柏《ひのき》や金松《かさやまき》[#ルビの「かさやまき」はママ]や、花柏《さわら》や、そうして羅漢松《おすとのろう》[#ルビの「おすとのろう」はママ]などが、鬱々蒼々と繁ってい、昼なお暗いところもあれば、カラッと開けて急に眼の下へ、耕地が見えるというような、そういう明るいところもあった。
随分急の上りなので、雲助はしきりに汗を拭いた。
主水は陣十郎の容態を案じた。
(窮屈の駕籠でこんな所を越して、にわかに悪くならなければよいが)
で、時々駕籠を止めて、客をも駕籠舁《かごかき》をも休ませた。
峠の中腹へ来た時である、
「駕籠屋ちょっと駕籠をとめろ」
突然陣十郎はそう云った。
「おい主水、景色を見ようぜ」
「よかろう」と主水も駕籠から下りた。
「歩けるのか、陣十郎」
「大丈夫だ。ボツボツ歩ける」
陣十郎は先に立って、森の方へ歩いて行った。
4
明応《めいおう》年間に木曽義元、小笠原氏と戦って、戦い勝利を得たるをもって、華表《とりい》を建てて鳥居峠と呼ぶ。
その鳥居の立っている森。――森の中は薄暗く、ところどころに日漏れがして、草に斑紋《まだら》を作ってはいたが、夕暮のように薄暗かった。
そこを二人は歩いて行った。
紅葉した楓《かえで》が漆《うるし》の木と共に、杉の木の間に火のように燃え、眩惑的に美しかったが、その前までやって来た時、
「エ――イ――ッ」と裂帛の声がかかり、木漏れ陽を割って白刃一閃!
「あッ」
主水だ!
叫声を上げ、あやうく飛び退き抜き合わせた!
悪人の本性に返ったらしい! 見よ、陣十郎は負傷の身ながら、刀を大上段に振り冠り、繃帯の足を前後に踏み開き、大眼カッと見開いて、上瞼へ瞳をなかば隠し、三白眼を如実に現わし、主水の眼をヒタと睨み、ジリリ、ジリリと詰め寄せて来た。
殺気!
磅磚《ぼうばく》!
宛《えん》として魔だ!
気合に圧せられ殺気に挫かれ、主水はほとんど心とりのぼせ、声もかけられずジリリジリリと[#「ジリリジリリと」は底本では「ヂリリヂリリと」]、これは押されて一歩一歩後へ後へと引き下った。
間!
静かにして物凄い、生死の境の間が経った。
と、陣十郎の唇へ酸味のある笑いが浮かんで来た。
「駄目だなア主水、問題にならぬぞ。それでは到底俺は討てぬ」
「…………」
「人物は立派で可《い》い人間だが、剣道はからきし[#「からきし」に傍点]物になっていない」
「…………」
「刀をひけよ、俺も引くから」
陣十郎は数歩下り、刀を鞘に納めてしまった。
二人は草を敷いて並んで坐った。
小鳥が木から木へ渡り、囀りの声を立てていた。
「主水、もっと修行せい」
「うん」と主水は恥かしそうに笑い、
「うん、修行するとしよう」
「俺が時々教えてやろう」
「うん、お前、教えてくれ」
「俺の創始した『逆ノ車』――こいつを破る法を発明しないことには、俺を討つことは出来ないのだがなア」
「とても俺には出来そうもないよ。『逆ノ車』を破るなんてことは」
「それでは俺を討たぬつもりか」
「きっと討つ! 必ず討つ!」
主水は烈しい声で云い、鋭い眼で陣十郎を睨んだ。
それを陣十郎は見返しながら、
「討てよ、な、必ず討て! 俺もお前に討たれるつもりだ。……が、それには『逆ノ車』を……」
主水は俯向いて溜息をした。
二人はしばらく黙っていた。
森の外の明るい峠道を、二三人の旅人が通って行き、駄賃馬の附けた鈴の音が、幽かながらも聞こえてきた。
「『逆ノ車』使って見せてやろうか」
ややあって陣十郎はこう云った。
「うむ、兎も角も使って見せてくれ」
「立ちな。そうして刀を構えな」
云い云い陣十郎は立ち上った。
そこで主水も立ち上り、云われるままに刀を構えた。
と、陣十郎も納めた刀を、又もソロリと引き抜いたが、やがて静かに中段につけた。
5
「よいか」と陣十郎が云った途端、陣十郎の刀が左斜に、さながら水でも引くように、静かに、流暢に、しかし粘って、惑わすかのようにスーッと引かれた。
何たる誘惑それを見ると、引かれまい、出まいと思いながら、その切先に磁気でもあって、己が鉄片ででもあるかのように、主水は思わず一歩出た。
陣十郎の刀が返った。
ハ――ッと主水は息を呑んだ。
瞬間怒濤が寄せるように、大下手切り! 逆に返った刀!
見事に胴へダップリと這入った。
「ワッ」
「ナーニ切りゃアしないよ」
もう陣十郎は二間の彼方へ、飛び返っていて笑って云った。
「どうだな主水、もう一度やろうか」
「いや、もういい。……やられたと思った」
主水は額の冷汗を拭いた。
また二人は並んで坐った。
「どうだ主水、破れるか?」
「破るはさておいて防ぐことさえ……」
「防げたら破ったと同じことだ」
「うん、それはそうだろうな」
「どこがお前には恐ろしい?」
「最初にスーッと左斜へ……」
「釣手の引のあの一手か?」
「あれにはどうしても引っ込まれるよ」
「次の一手、柳生流にある、車ノ返シ、あれはどうだ?」
「あれをやられるとドキンとする」
「最後の一手、大下手切り! これが本当の逆ノ車なのだが、これをお前はどう思う?」
「ただ恐ろしく、ただ凄じく、されるままになっていなければならぬよ」
「これで一切分解して話した、……そこで何か考案はないか?」
「…………」
無言で主水は考えていた。
と、陣十郎が独言のように云った。
「すべての術は単独ではない。すべての法は独立してはいない。……『逆ノ車』もその通りだ。『逆ノ車』そればかりを単独に取り上げて研究したでは、とうてい破ることは出来ないだろう。……その前後だ、肝心なのは! ……どういう機会に遭遇した時『逆ノ車』を使用するか? ……『逆ノ車』を使う前に、どうそこまで持って来るか? ……こいつを研究するがいい。……こいつの研究が必要なのだ」
ここで陣十郎は沈黙した。
主水は熱心に聞き澄ましていた。
そう陣十郎に云われても、主水には意味が解らなかった。いやそう云われた言葉の意味は、解らないことはなかったが、それが具体的になった時、どうなるものかどうすべきものか、それがほとんど解らなかった。
で、いつ迄も黙っていた。
「澄江殿はどうして居られるかのう」
こう如何にも憧憬《あこが》れるように、陣十郎が云いだしたのは、かなり間を経た後のことであった。
異様な声音に驚いて、主水は思わず陣十郎を見詰めた。
と、陣十郎の頬の辺りへ、ポッと血の気が射して燃えた。
(どうしたことだ?)と
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