郎、当惑の眉をひそかにひそめた。
「不思議な所でお逢い申した」
「いや」と要介は苦笑いをし、
「拙者におきましてはこの邂逅、不思議ではのうて期する処でござった」
「期する処? はてさてそれは?」
「と申すはこの要介、貴殿を追っかけ参りましたので」
「拙者を追っかけ? ……何故でござるな?」
「源女殿を当方へいただくために」
「…………」
「過ぐる日貴殿お屋敷において、木刀立合いいたしました際、拙者貴殿へ申し上げましたはずで。源女殿を取り返すでござりましょうと。……なお、その際申し上げましたはずで、後日真剣で試合ましょうと。……」
「…………」
「いざ、今こそ真剣試合! 拙者勝たば有無ござらぬ、源女殿を頂戴いたす!」
「…………」
「なお、この際再度申す、拙者が勝たば赤尾の林蔵を――その林蔵は拙者と同伴、乾児と共にそこへ参ってござる。――関東一の貸元として、猪之松を隷属おさせ下さい!」
「拙者が勝たば高萩の猪之松を――その猪之松儀これより見れば、同じく乾児を引卒して、そこに屯して居るようでござるが、その猪之松を関東一の、貸元として林蔵を乾児に……」
「致させましょう、確かでござる!」
「しからば真剣!」
「白刃の立合い!」
「いざ!」
「いざ!」
 サ――ッと三間あまり、二大剣豪は飛び退ったが、一度に刀を鞘走らせると、火事の光りに今はこの辺り、白昼《ひるま》よりも明るくて、黄金の色を加えて赤色、赤金色の火焔地獄! さながらの中にギラギラと輝く、二本の剣をシ――ンと静め、相青眼に引っ構えた。
 これを遥かに見聞して、驚いたのは林蔵と猪之松で、
(俺らのために先生――師匠が、――師匠同志が切り合ったでは、此方《こちとら》の男がすたって[#「すたって」に傍点]しまう! もうこうなっては遠慮は出来ねえ! 控えていることは出来なくなった!)
 両人ながら同じ心で、同じ心が言葉になり、
「さあ手前達かもう事アねえ、猪之の同勢へ切り込んで、猪之の首をあげっちめえ!」
「さあ野郎共赤尾へ切り込め! 林蔵を仕止めろ仕止めろ!」
 ド――ッとあがった鬨の声!
 ムラムラと両軍走りかかった。
 白刃! 閃き! 悲鳴! 怒声! 仆れる音! 逃げつ追いつ、追いつ逃げつする姿!
 混乱混戦の場となったが、この時|宿《しゅく》もいよいよ混乱! 混乱以上に阿鼻叫喚の焦熱地獄となりまさり火事の焔の熱気に堪えかね、空地へ耕地へ……耕地へ耕地へと、さながら怒濤の崩れる如く、百、二百、三百、四百! 老幼男女家畜までが、この耕地へ逃げ出して来た。
 その人波に揉まれ揉まれて、澄江とお妻とが泳いで来た。
 と、陰惨とした幽鬼の声で、
「澄江殿オ――、お待ちなされ! ……汝お妻ア――遁そうや!」と叫ぶ、陣十郎の声がした。


 澄江もお妻も振り返って見た。
 愛欲の鬼、妄執の餓鬼、殺人鬼、――鬼となった陣十郎が人波を分けて、二人の方へ走って来た。
 血刀が群集の波の上に、火光《ひかり》を受けて輝いている。
(陣十郎に捕らえられたら、妾《わたし》の命は助からない)
 お妻は夢中で悲鳴を上げて走り、
(陣十郎殿に捕らえられたら、妾の躰も貞操も……)
 こう思って澄江も無我夢中で、前へ前へとヒタ走った。
「どうぞお助け下さりませ!」
 無我夢中で走って来た澄江、一挺の駕籠のあるのを見かけて、そこへ駈け付けこう叫んだ。
「お助けいたす! 駕籠の中へ!」
 誰とも知らず叫んだ者があった。
「お礼は後に、事情も後に!」
 こう云って澄江は駕籠の中へ、窮鳥のように身を忍ばせた。
「駕籠やれ!」と又も誰とも知れず叫んだ。
 駕籠がユラユラと宙に上り、街道の方へ舁がれて走り、その後から赧顔長髪の、酒顛童子[#「酒顛童子」は底本では「酒天童子」]さながらの人物が、ニタニタ笑いながら従《つ》いて走った。
 猪之松の屋敷で澄江の躰を、自分の物にしようとして、陣十郎に邪魔をされて、望みを遂げることに失敗した、馬大尽の井上嘉門であった。
「駕籠待て――ッ、遣らぬ! 待て待て待て――ッ!」
 陣十郎は追っかけたが、
「や、こいつ陣十郎! 又現われたか、今度こそ仕止めろ!」と、猪之松の乾児達一斉に、陣十郎を引っ包んだ。
 一方、お妻はその隙を狙い、ひた走りひた走ったが、息切れがして地に仆れた。
 と、そこに刀を下げて、寄せ来る群集に当惑し、左右に避けていた武士がいた。
「お侍さまと見申して、お助けお願いいたします!」
 云い云いお妻は武士の袖に縋った。
「誰じゃ? よし、誰でもよし! 見込まれて助けを乞われた以上、誰であろうと助けつかわす! 参れ!」と云ったがこの武士こそ、秋山要介と太刀を交わし、命の遣り取りをしようとした瞬間、群集の崩れに中をへだてられ、相手の姿を見失ったところの、逸見多四郎その人であった。
「東馬々々、東馬参れ!」
「はい先生! 私はここに!」
「源女殿は? 源女殿は?」
「源女殿は人波にさらわれて……どことも知れずどことも知れず……」
「残念! ……とはいえ止むを得ぬ儀、東馬参れ――ッ!」と刀を振り上げ、遮る群集に大音声!
「道を開け! 開かねば切るぞ!」
 刀の光に驚いて、道を開いた群集の間を、あて[#「あて」に傍点]もなく一方へ一方へ、三人は走った走った走った。
 が、それでも未練あって、
「源女殿オ――、源女殿オ――ッ」と呼ばわった。
 そういう声は聞きながら、永らく世話になってなつかしい、要介の姿を見かけた源女は――逸見多四郎に対しても、丁寧な待遇を受けたので、決して悪感は持っていなかったが、要介に対してはそれに輪をかけた、愛慕の情さえ持っていたので、その方角へ人を掻き分け、この時無二無三に走っていた。
「秋山先生!」とやっと[#「やっと」に傍点]近付き、地へひざまずくと足を抱いた。

10[#「10」は縦中横]
「源女殿か――ッ!」と秋山要介、これも地面へ思わず膝つき
「逢えた! よくぞ! 参られた! ……杉氏々々!」と嬉しさの声、顫わせて呼んで源女を抱き、
「もう逃がさぬ! どこへもやらぬ! 杉氏々々源女殿を、林蔵の手へ! ……そこで介抱!」
「おお源女殿オ――ッ! よくぞ来られた!」
 駈け寄って来た浪之助、これもなつかしさ[#「なつかしさ」に傍点]に声を亢《たか》ぶらせ、
「いざ源女殿、向こうへ向こうへ! ……先生にもご同道……」
「いやいや俺は逸見多四郎を! ……」
「この混乱、この騒動、見失いました上からは……」
「目つからぬかな。……では行こう」
 この混乱の人渦の中を、阿修羅のように荒れ廻っているのは、澄江を奪われお妻を見失い、猪之松の乾児達に取り巻かれ、切り立てられている陣十郎であった。
 十数人を殺傷し、己も幾度か薄手を受け、さすがの陣十郎も今は疲労! その極にあって眼はクラクラ、足元定まらずよろめくのを、得たりと猪之松の乾児の大勢、四方八方より切ってかかった。
 それをあしらい[#「あしらい」に傍点]、避けつ払いつ――こいつらに討たれては無念残念、どこへなりと一旦遁れようと退く、退く、今は退く!
 ようやく人波の渦より出、追い縋る猪之松の乾児からも遁れ、薮の裾の露じめった草野へ、跚蹣《さんまん》として辿りついた時には、神気全く消耗し尽くした。
(仆れてなろうか! 仆れぬ! 仆れぬ!)
 が、ドッタリ草の上に仆れ、気絶! ――陣十郎は気絶してしまった。
 火事の遠照りはここまでも届いて、死人かのように蒼い顔を、陰影づけて明るめていた。
 修羅の巷は向こうにあったが、ここは寂しく人気なく、秋の季節は争われず、虫の音がしげく聞こえていた。
 と、この境地へ修羅場を遁れ、これも同じく疲労困憊、クタクタになった武士が一人、刀を杖のように突きながら、ヒョロリヒョロリと辿って来た。
「や、死人か、可哀そうに」と呟き、陣十郎の側《そば》へ立った。
 が、俄然躍り上り――躍り上り躍り上り声をあげた。
「陣十郎オ――ッ! 汝《おのれ》であったか! 鴫澤主水が参ったるぞ! 天の与え、今度こそ遁さぬ! 立ち上って勝負! 勝負いたせッ!」
 武士は鴫澤主水であった。
「起きろ起きろ水品陣十郎! 重なる怨み今ぞ晴す! ……起きろ! 立ち上れ! 水品陣十郎!」
 刀を真っ向に振り冠り、起き上ったらただ一討ち! ……討って取ろうと構えたが、陣十郎は動かなかった。
(死んでいるのか?)と疑惑が湧いた。
 手を延ばして額へ触った。
 気絶しているのだ、暖味がある。
(よ――し、しからばこの間に!)
 振り冠った刀を取り直し、胸へ引きつけ突こうとしたが、心の奥で止めるものがあった。
(あなたが高萩の森の中で、気絶しているのを陣十郎の情婦、お妻が助けたではありませんか。……正体もない人間を、敵《かたき》であろうと討つは卑怯、まず蘇生させてその上で)と。
(そうだ)と主水は草に坐り、印籠から薬を取り出した。

恩讐同居


木曽福島の納めの馬市。――
 これは勿論現代にはない。
 現代の木曽の馬市は、九月行なわれる中見《なかみ》の市と、半夏至を中にして行なわれる、おけつげ[#「おけつげ」に傍点]という二つしかない。
 納めの馬市の行なわれたのは、天保末年の頃までであり、それも前二回の馬市に比べて、かなり劣ったものであった。もうこの頃は山国の木曽は、はなはだ寒くて冬めいてさえ居り、人の出もあまりなかったからである。
 とは云え天下の福島の馬市! そうそう貧弱なものではなく、馬も五百頭それくらいは集まり、縁日小屋も掛けられれば、香具師《やし》の群も集まって来、そうして諸国の貸元衆が、乾児をつれて出張っても来、小屋がけをして賭場をひらいた。
 この時集まって来た貸元衆といえば――
 白子の琴次《ことじ》、一柳の源右衛門、廣澤の兵右衛門、江尻の和助、妙義の雷蔵、小金井の半助、御輿の三右衛門、鰍澤《かじかざわ》の藤兵衛、三保松源蔵、藤岡の慶助――等々の人々であり、そこへ高萩の猪之松と、赤尾の林蔵とが加わっていた。
 左右が山で中央が木曽川、こういう地勢の木曽福島は、帯のように細い宿であったが、三家の筆頭たる尾張様の家臣で、五千八百余石のご大身、山村甚兵衛が関の関守、代官としてまかり居り、上り下りの旅人を調べる。で、どうしてもこの福島へは、旅人は一泊かあるいは二三泊、長い時には七日十日と、逗留しなければならなかったので、宿は繁盛を極めていた。尾張屋という旅籠《はたご》があった。
 そこへ何と堂々と、こういう立看板が立てられたではないか!
「秋山要介在宿」と。
 これが要介のやり口であった。
 どこへ行っても居場所を銘記し、諸人に自己の所在を示し、敵あらば切り込んで来い、慕う者あらば訪ねて来いという、そういう態度を知らせたのであった。
 その尾張屋から二町ほど離れた、三河屋という旅籠には、逸見《へんみ》多四郎が泊っていたが、この人は地味で温厚だったので、名札も立てさせずひっそりとしていた。
 さて馬市の当日となった。
 博労、市人、見物の群、馬を買う人、馬を売る人、香具師《やし》の男女、貸元衆や乾児、非常を警める宿役人、関所の武士達、旅の男女――人、人、人で宿《しゅく》は埋もれ、家々の門や往来には、売られる馬が無数に繋がれ、嘶《いなな》き、地を蹴り、噛み合い刎ね合い、それを見て犬が吠え――、声、声、声で騒がしくおりから好天気で日射し明るく、見世物小屋も入りが多く、賭場も盛って賑やかであった。
 そういう福島の繁盛を外に、かなり距たった奈良井の宿の、山形屋という旅籠屋へ、辿りついた二人の武士があった。
 陣十郎と主水であった。
 奥の小広い部屋を二つ、隣同志に取って泊まった。
 二人ながら駕籠で来たのであったが、駕籠から現われた陣十郎を見て、
「こいつは飛んだお客様だ」と、宿の者がヒヤリとした程に、陣十郎は憔悴してい、手足に幾所か繃帯さえし、病人であり、怪我人であることを、むごたらしく鮮やかに示していた。
 夕食の膳を引かしてから、主水は陣十郎の部屋へ行った。
「どうだ陣十郎、気分はどうだ
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