居ないのがかえって天の与え、今日の彼の様子から推せば、今後どんな目に逢わされるかも知れない。
(宿を出てともかくも外へ行こう)
 仕度をして外へ出た。
(主水様は?)
 こんな場合にも思った。


 昼間見かけた例のお侍さんが、もし恋しい主水様なら、この宿のどこかに泊まっていよう、お逢いしたいものだお逢いしたいものだ!
 思い詰めて歩く彼女の姿も、いつか混乱に捲かれてしまった。
 岩屋で眼覚めた主水その人も、ほとんど澄江と同じであった。
 傍らを見るとお妻が居ない。天の与えと喜んだ。義理あればこそ今日まで、一緒に起居をして来たのではあるが、希望《のぞみ》は別れることにあった。
 そのお妻の姿が見えない。
(よしこの隙に立ち去ろう)
 で、身仕度して外へ出た。
(鍵屋の二階で見かけた女、義妹澄江であろうも知れない。ともかくも行って探して見よう)
 で、その方へ歩を運んだが、人と馬と火との混乱! その混乱に包まれて、全く姿が見えなくなった。
 喚声、悲鳴、馬のいななき!
 破壊する音、逃げまどう足音?
 唸る嵐に渦巻き渦巻き、火の子を散らす火事の焔!
 宿は人の波、馬の流れ、水の洗礼、死の饗宴、声と音との、交響楽!
 その間を縫って全くの狂乱――血を見て狂った悪鬼の本性、陣十郎が走っては切り、切っては走り、隠見出没、宿の八方を荒れ廻っていた。
 今はお妻を探し出して切る! ――そういう境地からは抜け出していて、自分のために追分の宿が、恐怖の巷に落ち入っている、それが変質的彼の悪魔性を、恍惚感に導いていた。で男を切り女を切り馬を切り子供を切り、切れば切るほど宿が恐怖し、宿が混乱するその事が、面白くて面白くてならないのであった。
 返り血を浴び顔も手足も、紅斑々《こうはんはん》[#「紅斑々」は底本では「紅班々」]として凄まじく、髻《もとどり》千切れて髪はザンバラ、そういう陣十郎が老人の一人を、群集の中で切り仆し、悲鳴を聞き捨て突き進み、向こうから群集を掻き分け掻き分け、こっちへ向かって来る若い女を見た。
「澄江エ――ッ」と思わず声をあげた。
 それが澄江であるからであった。
「陣十様[#「陣十様」はママ]か!」と澄江は云ったが、あまりにも恐ろしい陣十郎の姿! それに自身陣十郎から遁れ、立ち去ろうとしている時だったので、陣十郎の横を反れ、群集の中へまぎれ込もうとした。
「汝逃げるか! 忘恩の女郎《めろう》!」
 そういう澄江の態度によって、心中をも見抜いた陣十郎は、可愛さ余って憎さが百倍! この心理に勃然として襲われ、いっそ未練の緒を断ってしまえ! 殺してしまえと悪鬼の本性、今ぞ現わして何たる惨虐!
「くたばり居ろう!」と大上段に、刀を振り冠り追いかけたが、その間をへだてる群集の波! が、そいつを押し分け突っ切り、近寄るや横から、
「思い知れ――ッ」と切った。
 が、幸いその途端に、一頭の馬が走って来、二三の人を蹴り仆し、二人の間へ飛び込んだ。
「ワ――っ」という人々の叫び! 又二三人蹴り仆され、澄江も仆れる人のあおりで、ドッと地上に伏し転んだ。
 と「お女中あぶないあぶない!」と、云い云い抱いて起こしてくれたは、旅|装束《よそおい》をした武士であった。
「あ、あ、あなたは主水様ア――ッ」
「や、や、や、や、澄江であったか――ッ」


 抱き起こしてくれたその武士こそ、恋しい恋しい主水であった。
「主水様ア――ッ」と恥も見得もなく、群集に揉まれ揉まれながら、澄江は縋りつき抱きしめた。
「澄江! 澄江! おおおお澄江!」
 思わず流れる涙であった。
 涙を流し締め返し、主水はほとんど夢中の態で、
「澄江であったか、おおおお澄江で! ……昼間鍵屋の二階の欄で。……それにいたしてもよくぞ無事で! ……別れて、知らず、生死を知らず、案じていたに、よくぞ無事で……」
 しかしその時群集の叫喚、巷の雑音を貫いて
「やあ汝《おのれ》は鴫澤主水《しぎさわもんど》! この陣十郎を見忘れはしまい! ……本来は汝に討たれる身! 逃げ隠れいたすこの身なれど、今はあべこべに汝を探して、返り討ちいたさんと心掛け居るわ! ……見付けて本望逃げるな主水!」と叫ぶ声が聞こえてきた。
「ナニ陣十郎? 陣十郎とな?」
 かかる場合にも鴫澤主水、親の敵《かたき》の陣十郎とあっては、おろそかにならずそれどころか、討たでは置けない不倶戴天の敵!
(どこに?)と声の来た方角を見た。
 馬や群集に駈けへだてられ、十数間あなたに離れてはいたが、まさしく陣十郎の姿が見えた。
 が、おお何とその姿、凄く、すさまじく、鬼気陰々、悪鬼さながらであることか! ザンバラ髪! 血にまみれた全身!
 ゾッとはしたが何の主水、驚こうぞ、恐れようぞ、
「妹よ、澄江よ、天の賜物、敵陣十郎を見出したるぞ! 討って父上の修羅の妄執、いで晴そうぞ続け続け――ッ」と刀引き抜き群集を分け、無二無三に走り寄った。
「ア、あにうえ! お兄イ様ア――ッ」
 叫んだが澄江の心は顛倒! 勿論親の敵である! 討たねばならぬ敵であるが、破られべかりし女の命の、操を救い助けてくれた恩人! ……陣十郎を陣十郎を!
(妾《わたし》には討てぬ! 妾には討てぬ!)
「オ、お兄イ様ア――ッ、オ、お兄イ様ア――ッ」
 その間もガガ――ッ! ド、ド――ッ! ド、ド――ッ! 響き轟き寄せては返す、荒波のような人馬の狂い!
 宿《しゅく》は狂乱! 宿は狂乱
「陣十郎オ――ッ! 尋常に勝負!」
「参れ主水オ――ッ! 返り討ち!」
 一間に逼った討ち手討たれ手!
 音!
 太刀音!
 合ったは一合オ――ッ!
「わ、わ、わ、わ――ッ」と悲鳴! 悲鳴!
 いや、いや、いや、主水ではなく、陣十郎でもなく群集群集!
 群集が二人の切り結ぶ中を、見よ恐れず意にもかけず、馳せ通り駈け抜け走る走る!
 その人々に駈けへだてられ、寄ろうとしても再び寄れず、焦心《あせっ》ても無駄に互いに押され、右へ左へ、前と後とへ、次第次第に、遠退く、遠退く!
「陣十郎オ――ッ! 汝逃げるな!」
「何の逃げよう――ッ! 主水参れ――ッ!」
「お兄イ様ア――ッ」
「妹ヨ――ッ」
「澄江殿! 澄江殿! 澄江殿オ――ッ」


 追分宿の狂乱の様を、望み見ながらその追分宿へ、入り込んで来る一団があった。
 旅合羽に草鞋脚絆、長脇差を落として差し、菅笠を冠った一団で、駒箱、金箱を茣蓙に包み、それを担いでいる者もあり、博徒の一団とは知れていたが、中に二人の武士がいた。
 秋山要介と杉浪之助と、赤尾の林蔵とそれの乾児の、三十余人の同勢であり、云わずと知れた木曽福島の、納めの馬市に開かれる、賭場に出るべく来た者であった。
 納めの馬市には日限がある。それに間に合わねば効果がない。で猪之松や林蔵ばかりが[#「ばかりが」は底本では「ばかりか」]、この日この宿を通るのではなく、武州甲州の貸元で、その馬市へ出ようとする者は、おおよそ今日を前後に挿んで、この宿を通らなければならないのであった。
 要介達は何故来たか?
 源女を逸見多四郎に取られた。
 爾来要介は多四郎の動静、源女の動静に留意した。
 と、二人が連立って、木曽へ向かったと人伝てに聞いた。
(では我々も追って行こう)
 おりから林蔵も行くという。
 では同行ということになり、さてこそ連れ立って来たのであった。
 粛々と一団は歩いて来たが、見れば行手の追分宿は、火事と見えて火の手立ち上り、叫喚の声いちじるしかった。
 と、陸続として逃げて来る男女! 口々に罵る声を聞けば、
「焼き討ちだ――ッ!」
「馬が逃げた――ッ!」
「百頭、二百頭、三百頭オ――ッ!」
「切り合っているぞ――ッ!」
「焼き討ちだ――ッ」
 耳にして要介は足を止めた。
「林蔵々々、少し待て!」
「へい、先生、大変ですなア」
「どうも大変だ、迂闊には行けぬ」
「そうですとも先生迂闊には行けない」
「宿を避けて野を行こう」
「そうしましょう、さあ野郎共、その意《つもり》で行け、街道から反れろ」
「へい」と一同街道を外し、露じめっている草を踏み、野へ出て先へ粛々と進んだ。
 進み進んで林蔵の一団、生地獄の宿を横に睨み、宿の郊外まで辿りついた。
 と、この辺りも避難の人々で、相当混雑を呈してい、放れ馬も時々走って来た。火事の光は勿論届きほとんど昼のように明るかった。
 その光で行手を見れば、博徒の一団が屯《たむろ》していて、宿の様子を眺めていた。
(おおどこかのお貸元が、避難してあそこにいるらしい。ちょっとご挨拶せずばなるまい)
 渡世人の仁義である。
「藤作々々」と林蔵は呼んだ。
「へい、親分、何でござんす」
「向こうに一団見えるだろう。どこのお貸元だか知らねえが、ちょっと挨拶に行って来ねえ」
「ようがす」と藤作は走って行ったが、すぐ一散に走り帰って来た。
「親分、大変で、猪之松の野郎で」
「ナニ猪之松? ううん、そうか!」
 見る見る額に青筋を立てた。
「先生々々、秋山先生!」
「何だ?」と要介は振り返った。
「向こうに見えるあの同勢、高萩の猪之だっていうことで」
「猪之松? ふうん、おおそうか」
 要介も向こうを睨むように見た。


「林蔵!」としかし要介は云った。
「猪之松には其方《そち》怨みはあろうが、ここでは手出ししてはならぬぞ」
「何故です先生、何故いけません?」
「何故と申してそうではないか。宿は火事と放れ馬とで、あの通りに混乱し、人々いずれも苦しんで居られる。そういう他人の苦難の際に、男を売物の渡世人が、私怨の私闘は謹むべきだ」
「そうですねえ、そう云われて見れば、こいつ一言もありませんや。が、相手がなぐり込んで来たら?」
「おおその時には売られた喧嘩、降りかかる火の子だ、断乎として払え!」
「ようがす、それじゃアその準備だ。……やいやい野郎共聞いていたか、猪之の方から手出ししたら幸い、遠慮はいらねえ叩き潰してしまえ! ……それまではこっちは居待懸け! おちついていろおちついていろ!」
「合点でえ」と赤尾の一党、鳴を静めて陣を立てた。
 と、早くも猪之松方でも、彼方に見える博徒の群が、赤尾の一党と感付いた。
「親分」と云ったのは一の乾児の、例の閂峰吉であった。
「林蔵の乾児の藤作の野郎が、やって来て引っ返して行きましたねえ」
「うん」と云ったのは猪之松で、先刻すでに駕籠から出、牀几を据えさせてそれへ腰かけ、火事を見ていた馬大尽、井上嘉門の側に立って、これも火勢を眺めていたが、
「うん、藤作が見えたっけ」
「向こうにいるなあ林蔵ですぜ。林蔵と林蔵の乾児共ですぜ」
「俺もそうだと睨んでいる」
「さて、そこで、どうしましょう?」
「どうと云って何をどうだ。先方が手出しをしやアがったら、相手になって叩き潰すがいい。それまではこっちは静まっているばかりさ」
「上尾街道では林蔵の方から、親分に決闘《はたしあい》を申し込んだはず。今度はこっちから申し込んだ方が」
「嘉門様がお居でなさらあ。……素人の客人を護衛《まも》って行く俺らだ、喧嘩は不可《いけ》ねえ、解ったろうな」
「なるほどなア、こいつア理屈だ。……じゃア静まって居りやしょう」
 この時二人の旅姿の武士と、同じく一人の旅姿の女、三人連れが火事の光に、あざやかに姿を照らしながら、宿の方から野へ現われ、猪之松方へ歩いて来た。
 眼ざとく認めたのが要介であった。
「杉氏」と要介は声をかけた。
「あの武家をよくご覧」
 浪之助は見やったが、
「先生ありゃア逸見先生で」
「であろうな、わしもそう見た」
「先生、女は源女さんですよ」
「そうらしい、わしもそうと見た。……よし」と云うと秋山要介[#「要介」は底本では「要助」]、つかつか進み出て声をかけた。
「あいやそこへまいられたは、逸見多四郎先生と存ずる。しばらくお待ち下されい」
 さようその武士は本陣油屋から、人波を分け放馬を避け、源女と東馬とを従えて、野へ遁れ出た多四郎であったが、呼ばれて足を止め振り返った。


「これはこれは秋山先生か」
 こう云ったが逸見多四
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