ている彼女であったので、まずまずと心をおちつかせ、燃えるように上気《のぼ》って痛む頭を、夜の風にでも吹かせてやろうと、そこは女|邯鄲師《かんたんし》で、宿をこっそり抜け出すことなど、雑作なく問題なく出来るので、宿をこっそり抜け出して、今こうやって歩いているのであった。
 さて冷え冷えとした高原の、秋の夜の風に吹かれながら、お妻は歩いているのであるが、問題が問題であるだけに、心は穏かにはならなかった。
(宿へ放火《ひつけ》でもしてやろうか!)
(人殺《ひとごろし》でもしてやろうか!)
 そんなことさえ思うのであった。
 街道から反れて草の露を散らし、お妻は野の方へ歩いて行く。
 と、街道を背後《うしろ》の方から、木曽の納めの馬市へ出る、馬の群が博労に宰領されて、陸続と無数にやって来た。徹夜をして先へ進むのであった。それらのともして[#「ともして」に傍点]行く提燈の火が、点々とあたかも星のように、道を明るめ動いていたが、珍らしい美しい眺めであった。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]秋が来たとて鹿さえ鳴くに、なぜに紅葉《もみじ》は色に出ぬ
※[#歌記号、1−3−28]余り米とはそりゃ情ない、美濃や尾張の涙米
[#ここで字下げ終わり]
 などと唄う馬子唄の声が、ノンビリとして聞こえてきた。
 しかしお妻にはそういう光景も、珍らしくもなければ美しくもなかった。でただ夢中で歩いていた。

 陣十郎が同じような心境の下に、旅籠を出て野の方へやって来たのは、ちょうどこの頃のことであった。
 主水のことを思っている澄江! それを口へ出して云った澄江! そういう澄江を夕方見た。汝々どうしてくれよう! すんでにその時陣十郎は、澄江を一刀に切ろうとした。
 が、それは辛うじて抑えた。
 さて夜になって二人は寝た。
 部屋の片隅に澄江が寝、別の片隅に陣十郎が寝。――これまでやって来たように、その夜もそうやって二人は寝た。
 が、陣十郎は眠られなかった。
 怒り、失望、嫉妬の感情が、心を亢《たか》ぶらせ頭を燃やし、安眠させようとしないのである。
 見れば澄江も眠られないと見えて、そうして恐怖に襲われていると見えて、こっちへ細い頸足《うなじ》を見せ深々と夜具にくるまったまま、溜息を吐いたり顫えたりして、夜具の中で蠢いていた。
(一思いに……)
 この考えが又浮かんだが、あさましくも憐れにも思われて、断行することが出来なかった。
(夜の風にでも吹かれて来よう)
 で、こっそりと宿を抜け出したのである。


 足にまつわる露の草を、踏分け踏分け陣十郎は歩いた。
 街道を馬の列が通って行く。
 それを避けて草野を歩いて行くのである。
(ガーッとどいつかを叩っ切ったら、この心も少しはおちつくかもしれない)
 そんなこともふと思われた。
(ウロウロ女でも通って見ろ)
 そんな兇暴の考えも、チラチラ彼の心の中に燃えた。
 と、そういう彼の希望に、応じようがために出て来たかのように、行手から女が星の光で知れる、小粋の姿を取り乱し、走ったり止まったりよろけ[#「よろけ」に傍点]たりして、こっちへ歩いて来るのが見られた。
(しめた!)と一刹那陣十郎は思った。
(宿の女か、旅の者か、そんなことはどうでもいい、来かかったのが女の不運! ……)
 で、素早く木陰に隠れた。
 その女はそれとも知らぬか、よろめくような足どりで、その前を通って行き過ぎようとした。
 不意に躍り出た陣十郎、物をも云わず背後《うしろ》の方から……
「あッ」
 不意の事だったので、女は驚きの声をあげたが、……
 しかし次の瞬間に、二人はパーッと左右へ別れた。
「貴様はお妻!」
「陣十郎様か!」
 サーッとお妻は逃げだした。
「待て!」
 刀を抜いて追っかけた。
 澄江と夫婦ならぬ夫婦となり、共住居《ともずまい》から旅に出た。そうなってからはお妻のことは、ほとんど陣十郎の心になかった。
 ところが意外にもこんな事情の下に、あさましいお妻とぶつかった。

高原狂乱


 仆れて、
「人殺シ――ッ」
 だが飛び起き、
「どなたか助けて――ッ」と走り出した。
 そのお妻をなお追いかけ、周章《あわて》たために不覚至極にも、切り損った自分を恥じ恥じ、
「逃げようとて逃がそうや! くたばれ、汝《おのれ》、毒婦、毒婦!」
 陣十郎は執念《しうね》く追った。
 仆れつ、飛び起きつ、刀を避け、お妻は走り走ったが、ようやく街道へ出ることが出来た。
 馬、博労、提灯、松明――馬市へ向かう行列が、街道を埋めて通っていた。
 そこへ駈け込んだ女|邯鄲師《かんたんし》のお妻、
「助けて――ッ、皆様、助けて!」
「どうしたどうした?」
「若い女だ!」
 博労達は騒ぎ立った。
「狂人《きちがい》が妾《わたし》を手籠めにし……殺そうとしてアレアレそこへ!」
 瞬間躍り込んで来た陣十郎、
「逃げるな、毒婦、逃がしてなろうか!」
 切り付けようとするやつを、
「女を助けろ!」
「狂人を殺せ!」
「ソレ抜身を叩き落とせ!」
 ムラムラと四方からおっとり[#「おっとり」に傍点]囲み、棒や鞭を閃めかし、博労達は陣十郎へ打ってかかった。
「汝ら馬方何を知って、邪魔立ていたすか、命知らずめ!」
 揮った刀!
 首が飛んだ!
「ワ――ッ」
「切ったぞ!」
「仲間の敵!」
「逃がすな!」
「たたんでしまえ!」
「狂人め、泥棒め!」
 十、二十、三十人! ムラムラと寄せ、犇いた。
 狂奔する馬! 地に落ちて燃える、提燈《ちょうちん》、松明《たいまつ》、バ――ッと立つ火焔!
 悲鳴に続く叫喚怒号! 仆れる音、叱咤する声!
 百頭に余る馬の群が、音に驚き光に恐れ、野の方へ宿《しゅく》の方へ駈け出した。
「馬が放れたぞ――ッ」
「逃がすな、追え!」
「捕らえろ!」
「大変だ――ッ」
「人殺し――ッ」
 ほとんど狂気した陣十郎、剣鬼の本性を現わして、馬と馬方の渦巻く中を、
「お妻! どこに! 逃がそうや!」と、右往し左往し走り廻り、邪魔になる博労、馬の群を、見境いもなく切りつ薙ぎつ、追分宿の方へ走る! 走る!
 と、この時一挺の駕籠を、菅の笠に旅合羽、長脇差を揃って差し、厳重に足のかためをした、三十人あまりの博労が守り、茣蓙に包んだ金箱や駒箱、それを担いで粛々と、宿の方からやって来たが、そこへ駈け込んだ馬の群に驚き、街道を反れて野に立った。
 上尾宿に長く逗留し、夜道をかけて帰らないことには、木曽福島の納めの馬市に、間に逢わないと焦慮して、帰りを急ぐ馬大尽を守護して、高萩の猪之松とその乾児とが、同じく夜道をかけて来た。――同勢は実にそれなのであった。


「馬を放したな、馬鹿な奴だ」
 こう云ったのは猪之松で、駕籠の脇に立っていた。
「商売物を逃がすなどとは、冥利に尽きた連中で」
 駕籠の戸をあけて騒動を見ていた、井上嘉門が嘲笑うように云った。
「だから一生馬方商売、それ以上にはなれませんので。ハッハッハッ」と附け加えた。
 そこへ陣十郎が駈けて来た。
 眼が眩んでいて見境いがなかった。
 数人を切った血刀を提げ、乱れた髪、乱れた衣裳、返り血を浴びたムキ出しの脛。――そういう姿で駈けて来た。
「陣十郎だ! 陣十郎だ!」
 閂峰吉が眼ざとく[#「ざとく」に傍点]目付け、ギョッとしたように声をあげた。
「おおそうだ陣十郎だ!」
 こう猪之松も叫んだが、いつぞやの晩自分の屋敷で、養ってやった恩を忘れ、乾児を切ったばかりでなく、井上嘉門に捧げた女――澄江とか云った武家の娘を、奪い去ったことを思い出した。
「畜生、恩知らず、たたんでしまえ!」
「やれ!」
 ダ、ダ、ダ、ダ! ――
 乾児達だ!
 一斉にひっこ[#「ひっこ」に傍点]抜いて切ってかかった。
「…………」
 無言で横なぐり!
 陣十郎であった!
 ブ――ッと血吹雪《ちふぶき》!
 闇ながら立った。
 匂いで知れる! 生臭さ!
「切ったぞ畜生!」
「用心しろ!」
 開いて散じたが又合した。
 見境いのない陣十郎、躍り上ってズ――ンと真っ向!
「キャ――ッ」
 仆れて、ノタウチ廻る。また乾児が一人やられた。
 見すてて一散宿の方へ!
「汝《おのれ》お妻ア――ッ! 逃がしてなろうか!」
「追え!」と猪之松は地団太を踏んだ。
「仕止めろ、汝ら、仕止めろ仕止めろ!」
 一同ド――ッと追っかけた。
 この頃|宿《しゅく》は狂乱していた。
 馬! 馬! 馬!
 博労! 博労! 博労!
 戸を蹴破り、露路に駈け込み、騒ぎに驚いて戸を開けた隙から、駈け入る馬! 捕らえようとして、無二無三に踏み入る博労!
 ボ――ッと一軒から火の手が揚がった。
 火事だ!
 とうとう火を出したのだ!
 おりから吹きつのった夜風に煽られ、飛火したらしいもう一軒から、カ――ッと火の手が空へあがった。
「起きろ!」
「火事だ!」
「焼き討ちだ!」
 家々はおおよそ雨戸を開け、人々は争って外へ出た。
 岩屋では主水が眼を覚まし、鍵屋では澄江が起き上った。
 番頭が階上階下《うえした》を怒鳴り廻っている。
「お客様方大変でございます。焼き討ちがはじまりましてござります! どうぞお仕度下さりませ! ご用心なすって下さりませ!」

 本陣油屋の奥の座敷では、逸見《へんみ》多四郎義利が、眼をさまして起き上った。


 多四郎は聞き耳を澄ましたが、
「源女殿! 東馬々々!」と呼んだ。
 と、左の隣部屋から、
「はい」という源女の声が聞こえ、
「眼覚め居りますでござります」という、門弟東馬の応える声が、右の隣部屋から聞こえてきた。
「宿《しゅく》に騒動が起こったようじゃ。……ともかくも身仕度してこの部屋へ!」
 間もなく厳重に身拵《みごしら》えした、東馬と源女とが入って来た。
 その間に多四郎も身拵えし、三人様子をうかがっていた。
 そこへ番頭が顔を出し、
「木曽福島の馬市へ参る、百頭に余る馬の群が、放れて宿へなだれ込み、出火などもいたしましたし、切り合いなどもいたし居ります様子、大騒動起こして居りますれば、ご用心あそばして下されますよう」
 こう云ってあわただしく走って行った。
「何はあれ宿の様子を見よう」
 多四郎は源女と東馬とを連れて、油屋の玄関から門口へ出た。
 多四郎がこの地へやって来た理由は?
 源女の歌う歌の中に、今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の、云々という文句があった。そこで多四郎は考えた。そういう馬飼の居る所に、黄金は埋められているのであろう、そうしてそういう馬飼の居る地は、木曽以外にはありそうもない。木曽山中には井上嘉門という、日本的に有名な馬飼があって、馬大尽とさえ呼ばれている。そやつが蔵しているのではあるまいか? おおそうそう馬大尽といえば、門弟高萩の猪之松方に、逗留しているということじゃ、源女殿と引き合わせ、二人の様子を見てやろうと、源女を連れて高萩村の、猪之松方へ行ったところ、本日井上嘉門ともども、木曽へ向かって行ったとのこと、それではこちらも木曽へ行こうと、東馬をも連れて旅立ったので、途中で馬大尽や猪之松の群と、遭遇《あ》わなければならないはずなのであるが、急いで多四郎が間道などを歩き、かえって早くこの地へ着き、日のある中《うち》に宿を取ったため、少し遅れてこの地へ着き、先を急いで泊まろうとせず、夜をかけて木曽の福島へ向かう、猪之松と馬大尽との一行と、一瞬掛け違ってしまったのであった。
 さて門口に立って見れば、宿の混乱言語に絶し、収拾すべくもなく思われた。
 群集が渦を巻いて街道を流れ、その間を馬の群が駈け巡り、その上を火の子が梨地《なしじ》のように飛んだ。
「これは危険だ、ここにいては不可《いけ》ない、野の方へ! 耕地の方へ!」
 こう云って多四郎は群集を分け、その野の方へ目差して進んだ。
 その後から二人は従《つ》いて行ったが、いつか混乱の波に呑まれ、全く姿が見えなくなってしまった。

 鍵屋で眼を覚まして起き上った澄江は、傍らを見たが陣十郎が居ない。
(どうしたことか?)と思ったものの、
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