を鼻にした獣が、敵愾心と攻撃的猛気、それを両眼に集めた時の、兇暴惨忍の眼のように、三白眼を怒らせたが、
「ふふん、主水! ……ふふん主水! ……澄江殿には主水のことを、このような旅の宿場の泊りにも、心に思うて居られたのか! ……ふふん、そうか、そうでござったか!」
ジロリと床の間の方へ眼をやった。
そこにあるものは大小であった。
既に幾人かの血を吸って、なお吸い足らぬ大小であった。
5
鍵屋から数町離れた地点に、岩屋という旅籠があり、その裏座敷の一室に、主水とお妻とが宿を取っていた。
主水は先刻《さっき》一軒の旅籠の、二階の欄干に佇んでいた、澄江に似ていた女のことを、心ひそかに思っていた。
もう夜はかなり更けていて、夕暮方の騒がしかった、宿の泊客の戯声や、婢女《おんな》や番頭や男衆などの声も、今は聞こえず静かとなり、泉水に落ちている小滝の音が、しのびやかに聞こえるばかりであり、時々峠を越して行く馬子の、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]追分油屋掛行燈に、浮気御免と書いちゃない
[#ここで字下げ終わり]
などと、唄って行く声が聞こえるばかりであった。
間隔《まあい》を離して部屋の隅に、二流《ふたながれ》敷《し》いてある夜具の中に、二人ながら既に寝ているのであった。
(もうお妻は眠ったかしら?)
顔を向けてそっちを見た。
夜具の襟に頤を埋めるようにして、お妻は眼を閉じ静まっていた。高い鼻がいよいよ高くなり、頬がこけて[#「こけて」に傍点]肉が薄くなり、窶れて凄艶の度を加えていた。
(俺のために随分苦労をしてくれた)
二人が夫婦ならぬ夫婦のようになり、弁三の家にかくまわれ[#「かくまわれ」に傍点]てから、木曽への旅へ出た今日が日まで、日数にしては僅かであったが、陣十郎のために探し出されまい、猪之松一家の身内や乾分共に、発見されまいと主水に対し、お妻が配慮し用心したことは、全く尋常一様でなかった。
あの日――お妻が主水に対し、はじめてうってつけ[#「うってつけ」に傍点]た恋心を、露骨に告げた日陣十郎によって、後をつけ[#「つけ」に傍点]られ家を見付けられ、あやうく奥へ踏み込まれようとしたが、弁三の鉄砲に嚇されて、陣十郎は逃げて行ったものの、危険はいよいよ迫ったと知り、爾来お妻は家へも帰らず、陣十郎とも勿論逢わず、猪之松の家へも寄りつかず、主水の傍らに弁三の家に、身を忍ばせて動かなかった。
だからお妻も主水も共々、あの夜高萩の猪之松方で、澄江があやうく馬大尽によって、処女の操をけがされようとしたことや、陣十郎が澄江を助け、猪之松の乾児達を幾人か切って、逃げたということなどは知らなかった。
しかしその中《うち》に弁三の口から、木曽の納めの馬市を目指して、馬大尽を送りかたがた、猪之松が大勢の乾児を引き連れ、木曽福島へ行くそうなと、そういうことだけは聞くことが出来た。
それをお妻は主水に話した。
「陣十郎は賭場防ぎ、猪之松方の賭場防ぎ。で、猪之松が木曽へ行くからは、陣十郎も行くでござんしょう」
こうお妻は附け足して云った。
「では拙者も木曽へ参って……」
主水は意気込み発足しようと云った。
「妾もお供いたします」
こうして旅へ出た二人であった。
(いわば敵の片割のような女、……それにもかかわらず縁は不思議、よく自分に尽くしてくれたなあ)
お妻の寝顔を見守りながら、そう思わざるを得なかった。
(露骨に恋心を告げた日以来、自分の心が決して動かず、お妻の要求は断じて入れない、――ということを知ったものと見え、その後はお妻も自分に対して、挑発的の言動を慎み、ただ甲斐々々しく親切に、年上だけに姉かのように、尽くしてくれるばかりだったが、思えば気の毒、おろそかには思われぬ。……)
そう主水には思われるのであった。
(それにしても先刻見かけた女、澄江に似ていたが、澄江に似ていたが……)
6
とはいえ澄江がこんな土地の、あんな旅籠に一人でションボリ、佇んでいるというようなことが、有り得ようとは想像されなかった。
(あの時お妻が、留女を、突きやり、俺の手を強く引っ張って、急いで歩いて来なかったら、あの女を仔細に見ることが出来、あの女が澄江かそうでないか、ハッキリ知ることが出来たものを)
それを妨げられて出来なかったことが、主水には残念でならなかった。
(やはり澄江であろうも知れない!)
不意に主水にはそう思われて来た。
(上尾街道での乱闘の際、聞けば澄江は猪之松方に属した、馬方によって担がれて行き、行方知れずになったとのこと、馬方などにはずかしめ[#「はずかしめ」に傍点]られたら、烈しい彼女の気象である、それ前に舌噛んで死んだであろう、もし今日も生きて居るとすれば、処女であるに相違なく、そうしてあの時から今日まで、そう日数は経っていない、わし[#「わし」に傍点]の消息を知ろうとして、あの土地に居附いていたと云える。とすると木曽の福島へ、納めの市へ馬大尽ともども、猪之松が行くということや、その猪之松の賭場防ぎの、陣十郎も行くということや、陣十郎が行く以上それを追って、わし[#「わし」に傍点]が行くだろうということを、澄江は想像することが出来る。ではそのわし[#「わし」に傍点]に逢おうとして、単身でこのような土地へ来ること、あり得べからざることではない)
こんなように思われるからであった。
(あの旅籠は鍵屋とかいったはずだ。距離も大して離れてはいない。行って様子を見て来よう)
矢も楯もたまらないという心持に、主水は襲われずにいられなかった。
(が、お妻に悟られては?)
それこそ大変と案じられた。
(爾来《あれから》二人が夫婦ならぬ夫婦、妻ならぬ妻のような境遇に――そのような不満足の境遇に、お妻ほどの女が我慢しているのも、あの時以来澄江のことを、自分が口へ出そうとはせず、あの時以来澄江のことを、思っているというような様子を、行動の上にも出そうとはせず、ただひたすらにお妻の介抱を、素直に自分が受けているからで。そうでなくて迂闊にもし自分が、今も澄江を心に深く、思い恋し愛していると、口や行動に出したならば、それこそお妻は毒婦の本性を、俄然とばかり現わして、自分に害を加えようし、澄江がこの土地にいるなどと、そういうことを知ったなら、それこそお妻は情容赦なく、澄江を探し出して嬲り殺し! ――そのくらいのことはやるだろう)と、そう思われるからであった。
(澄江を確かめに行く前に、お妻が真実眠っているかどうか、それを確かめて置かなければならない)
主水は静かに床から出、お妻の方へ膝で進み、手を延ばして鼻へやった。
規則ただしいお妻の呼吸が、主水の掌《てのひら》に感じられた。
(眠っている、有難い)
で立ち上って衣裳のある方へ行った。
途端に、
「どちらへ?」と云う声がした。
ギョッとして主水は振り返った。
眼をあいたお妻が訝しそうに、主水の顔を見詰めながら、半身夜具から出していた。
「……いや……どこへも……厠へ……厠へ……」
「…………」
お妻は頷いて眼を閉じた。
で、主水は部屋から出た。
7
部屋から出て廊下へ立ったものの、寝巻姿の主水であった、旅籠を抜け出して道を歩き、鍵屋などへは行けなかった。
行けたにしても時が経ち、用達しの時間よりも遅れたならば、そうでなくてさえ常始終から、逃げはしないかと警戒しているお妻が、不安に思って探しに来、居ないと知ったら騒ぎ立て、一悶着起こそうもしれない。そうなっては大変である。
そこで主水は厠へ入り、やがて出て来て部屋へ帰り、穏しく又夜具の中へ入った。
見ればお妻は同じ姿勢で、安らかに眠っているようであった。
やはり主水には澄江のことが、どうにも気になってならなかった。
(よし、もう一度試みてみよう)
で、お妻の方へ眼をやったまま、又ソヨリと夜具から出た。
お妻はやはり眠っていた。
衣裳や両刀の置いてある方へ行った。
幸いにお妻は眼をさまさなかった。
(有難い)と心で呟き、手早く衣裳を着換えようとした時、
「主水様どちらへ?」とお妻が云った。
眼をさましていたのであった。
怒ったような、嘲るような、――妾を出し抜いて行こうとなされても、出し抜かれるものではござんせん――こう云ってでもいるような眼付で、お妻は主水をじっと見詰めた。
「いや……ナニ、ちょっと……それにしても寒い――信州の秋の夜の寒いことは……そこで重ね着しようとして……」
もずもず[#「もずもず」に傍点]と口の中で云いながら、テレて、失望して、断念して、主水は又も夜具の中へ入った。
(もう不可《いけ》ない、諦めよう)
主水はすっかり断念した。
眼端の利くお妻が眠った様子をして、こう自分を監視している以上、こっそり抜け出して行くことなど、とうてい出来ないと思ったからであった。
(よしよし明日の朝早く起き、そぞろ歩きにかこつけて、鍵屋へ行って見ることにしよう)
こう考えをつけてしまうと、一時に眠りが襲って来た。
主水は間もなく深い眠りに落ちた。
あべこべにお妻は眼をさましてしまい、腹這いになって考え込んだ。
好きで寝る間も枕元に置く莨《たばこ》、その煙管《きせる》を口にくわえ、ほの明るい行燈《あんどん》の光の中へ、漂って行く煙の行方を、上眼を使って見送りながら、お妻は考えに沈み込んだ。
これ迄は観念をしたかのように、決して自分を出し抜いて、逃げようなどとしたことのない主水が、今夜に限って何としたことか、二度まで抜けて出ようとした! これはどうしたことだろう?
どうにも合点がいかないのであった。
(何か曰くがなけりゃアならない)
それにしても自分というこの女が、女賊、枕探し、邯鄲師《かんたんし》、だから他人の寝息をうかがい、抜け出ることも物を盗むことも、殺すことさえ出来るのに、知らぬとはいえそういう自分を出し抜き、抜け出ようとした主水の態度が、どうにも可笑《おか》しくてならなかった。
(いっそ可愛い位だよ)
煙管をくわえたままお妻は笑い、主水の方をそっと見遣った。主水は安らかに天井の方を向いて、規則正しい呼吸をしていた。深い眠りに入っているらしい。
もう時刻は丑の刻でもあろうか、家の内外寂しく静かで、二間ほど離れた座敷の方から、鼾の声が聞こえてき、初秋の夜風に吹かれて落ちる、中庭あたりの桐の葉でもあろうか、バサリ、バサリと閑寂の音を、時々立てるのが耳につくばかりで、山国の駅路《えきろ》の旅籠の深夜は、芭翁《ばしょう》好みの寂寥に入っていた。
(今日まで我慢をして来たんだよ。……やっぱり順当の手段《て》で行こうよ)
お妻はとうとう思い返した。
で、煙管を抛り出し、男の方へ顔を向け、横に寝返って眠ろうとした。
途端に、
「澄江!」と眠ったままで、主水がハッキリ声を立てて云った。
「澄江よ! 澄江よ! お前はどこに! ……」
お妻はグラグラと眼が廻った。
(畜生!)
ムックリと起き上った。
(やっぱり思っていやがるんだ! あの女のことを! 澄江のことを!)
眼を据えて主水の寝顔を睨んだ。
主水は長閑《のどか》に眠っている。
が、愛する女のことを、夢にでも見ているのであろうか、閉じた眼を優しく痙攣させ、閉じた唇に微笑を湛えている。
8
それからしばらく経った時、追分の宿の宿外れを、野の方へ行く女があった。
星はあるが月のない夜で、それに嵐さえ吹いていて、その嵐に雲が乱れ、星をさえ隠す暗澹さ!
そういう夜道を物に狂ったかのように、何か口の中で呟きながら、走ったかと思うと立ち止まり、立ち止まったかと思うと又走る。
それは他ならぬお妻であった。
眠っている間も恋しい女、澄江のことを忘れかね、うわ言に出して云った主水――そういう主水の心持を知り、怒りと失望と嫉望《しっと》とに、お妻はほとんど狂わんばかりとなり、汝《おのれ》どうしてくれようかと、殺伐の気さえ起こしたのであったが、それは年増であり世間知りであり、世なれ
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