」と澄江は編笠の中から、これも優しい声で答えた。
心々の旅の人々
1
「お疲労でござらば駕籠雇いましょう」
陣十郎も編笠の中から、念を押すようにもう一度云った。いかにも優しい声であった。
「何の遠慮などいたしましょう、疲労ましたら妾の方から、駕籠なと馬なとお雇い下されと、押してお頼みいたします……どうやらそう仰言《おっしゃ》る貴郎様こそ、お疲労のご様子でございますのね。ご遠慮なく馬になと駕籠になと、ホ、ホ、ホ、お召しなさりませ」
からかう[#「からかう」に傍点]ように澄江は云った。
「ア、ハ、ハ、とんでもない話で、拙者と来ては十里二十里、韋駄天のように走りましたところでビクともする足ではござりませぬ。……貴女は女無理して歩いて、さて旅籠《はたご》へ着いてから、ソレ按摩じゃ、ヤレ灸《やいと》じゃと、泣顔をして騒がれても、拙者決して取り合いませぬぞ」
「貴郎様こそ旅籠に着かれてから、くるぶし[#「くるぶし」に傍点]が痛めるの肩が凝るのと、苦情めいたこと仰せられましても、妾取り合わぬでござりましょうよ。ホ、ホ、ホ」と朗かに笑った。
陣十郎も朗かに笑った。
これは何たることであろう! 敵同志であるこの二人が、こう親しくこう朗かで、浮々と旅をつづけて行くとは?
それには深い事情があった。
澄江はあの夜猪之松の屋敷で、すんでに井上嘉門によって、操を穢されるところであった。それを陣十郎が身を挺し、養われかくまわれ[#「かくまわれ」に傍点]た恩をも不顧《かえりみず》、猪之松の乾児《こぶん》を幾人となく切り捨て、自分を助けて遠く走り、農家に隠匿《かくま》い今日まで、安穏に生活《くらし》をさせてくれた。その間一度も陣十郎は、自分に対していやらしい言葉や、いやらしい所業《しわざ》に及ばなかった。勿論陣十郎は義父《ちち》の敵《かたき》、討って取らねばならぬ男、とはいえ義父を討ったのも、その一半は自分に対し、恋慕したのを自分が退け、義父や主水が退けたことに、原因があることではあり、性来悪人ではあろうけれど、従来一度も自分に対しては、悪事を働いたことはなかった。その上今は女の生命の、操を保護してくれた人――とあって見ればこの身の操は、云うまでもなく許婚《いいなずけ》の、主水一人に捧げる外、誰にも他の男へは、捧げてはならず自分としても、断じて捧げぬ決心であり、このことばかりは陣十郎にも、ハッキリ言動で示しはしたが、それ以外には陣十郎に対して、優しく忠実にまめまめしく、尽くさねばならぬ境遇となり、義父《ちち》上の敵を討つことは、武士道の義理には相違ないが、生命――操の恩人には、人情としてそれと等なみに、尽くさなければならぬ義理があるはず、そこで澄江はそれ以来、今のような行為を執っているのであり、主水様と陣十郎殿とが巡り合い、敵討の太刀が交わされても、どうも妾には陣十郎殿に対し敵対することも出来そうもないと、心では思ってさえいるのであった。
陣十郎の心持といえば
「この清浄無垢の白珠を、俺は誰にも穢させない!」
この一点にとどまっていた。
鴫澤《しぎさわ》庄右衛門を殺したのも、一つは澄江への恋心を、遮られたがためであった。敵持つ身となった原因、それが澄江であるほどの、澄江は陣十郎の恋女であった。だからその澄江を馬飼の長、嘉門如きが穢そうとする、何のむざむざ黙視出来ようぞ! そこで奪って逃げたのであり、遁れて知己《しりあい》の農家に隠匿い、今日まで二人で生活《くらし》て来る間、彼は今更に澄江という女が、女らしい優しい性質の中に、毅然として動かぬ女丈夫の気節を、堅く蔵していることを知り、愛慕の情を加えると同時に、尊敬をさえ持つようになり、暴力をもって自己の欲望などを、どうして遂げることが出来ようぞと、そう思うようになりさえした。
2
(澄江にとっては俺という人間、何と云っても義父の敵だ、それについてどう思っているだろう?)
これが一番陣十郎にとっては、関心の事であらねばならず、で、絶えず心を配り、澄江の心を知ろうとした。
と、澄江はその一事へは、決して触れようとはしなかった。
陣十郎も触れなかった。
さよう、互いにその一事へは、決して触れようとはしなかったが、陣十郎は自分の油断に澄江が早晩つけ[#「つけ」に傍点]込んで、寝首を掻くというような、卑劣な態度に出るということなど、澄江その人の性質から、有り得べからざることであると知り、それだけは安心することが出来、同時に澄江が義父の敵の自分に助けられたということから、義理と人情の板ばさみとなり、苦しい心的境遇に在る、そういうことを思いやり、憐愍同情の心持に、とらわれざるを得なかった。
(主水に対して澄江の心は?)
これも実に陣十郎にとっては、重大な関心の一事であった。
(勿論澄江は心に深く、主水を恋していることだろう!)
こう思うと陣十郎はムラムラと、嫉妬の思いに狩り立てられ、
(澄江が俺の意に従わぬのも、主水があるからだ!)と、主水に対する憎悪の念が、彼をほとんど狂気状態にまで、導き亢《たかぶら》せ追いやるのであった。
時々彼は澄江に向かい、主水のことを云い出して見た。
と澄江はきっとそのつど、あらぬ方へ話を反らせてしまって、何とも返辞をしなかった。
それが陣十郎には物足らず、心をイライラさせはしたが、しかしまだまだその方がよくて、もしもハッキリ澄江の口から、ないしは起居や動作から、主水恋しと告げられたら、その瞬間に陣十郎の兇暴性が爆発し、乱暴狼藉するかもしれなかった。
どっちみち陣十郎はこう思っていた。
(自己一身の生命の、永久の安全を計るためにも、主水は是非とも討って取らねばならぬ)
こっちから主水を探し出して、討って取ろうと少し前から、心に定《き》めた陣十郎が、今や一層にその心を深く強く定めたのであった。
その主水はどこにいるか?
それは全く解らなかった。
が、気がついたことがあった。
間もなく行なわれる木曽の馬市、納めの馬市へは武州甲州の、博徒がこぞって行くはずである。高萩の猪之松も行くはずである。ところで主水は俺という人間が、その猪之松の賭場防ぎとして、食客となっているということを、知っているということであるから、猪之松が福島へ行く以上、俺も行くものとそう睨んで、俺を討つため福島さして、主水も行くに相違ない。ヨ――シそいつを利用して、俺も出て行き機を狙い、彼を返り討ちにしてやろう。
で、ある日澄江へ云った。
「猪之松乾児の幾人かが、拙者と其方《そなた》とがこの農家に、ひそみ居ること知りましたと見え、この頃あたり[#「あたり」に傍点]を立ち廻ります。他所《よそ》へ参ろうではござりませぬか」
3
こうして旅へ出た二人であった。
旅へ出てはじめて木曽へ行くのだと、澄江は陣十郎によって明かされた。とはいえ鴫澤主水を討つべく、木曽へ行くのだとは明かされなかった。
「木曽へであろうと伊那へであろうと、妾《わたし》はどこへでも参ります」
そう澄江はおだやかに応えた。
成るようにしか成りはしない。神のまにまに、流るるままに。……そう澄江は思っているからであった。
又、そう思ってそうするより他に、仕方のない彼女でもあるのであった。
(しかし澄江がこの俺が、主水を討つために木曽へ行くのだと、そう知ったら安穏では居るまいなあ)
陣十郎はそう思い、そうとは明かさずただ漫然と、木曽への旅に澄江を引き出した。自分の邪の心持が、自分ながら厭になることがあり、
(俺は悪人だ悪人だ!)と、自己嫌忌の感情から、口の中で罵ることさえあった。
それに反して澄江に対しては、そうとは知らずに云われるままに、義兄であり、恋人であり許婚である主水を、返り討ちにする残虐な旅へ、引き出されたことを惻々と、不愍に思わざるを得なかった。
複雑極まる二人の旅心!
しかし表面は二人ながら、朗かに笑い朗かに語り、宿りを重ねて行くのであった。
さて、追分の宿へ着いた。
四時煙を噴く浅間山の、山脈の裾に横たわっている宿場、参覲交代の大名衆が――北陸、西国、九州方の諸侯が、必ず通ることに定まっている宿、その追分は繁華な土地で、旅籠《はたご》には油屋角屋などという、なかば遊女屋を兼ねたような、堂々としたものがあり、名所には枡形があり、旧蹟には、石の風車ややらず[#「やらず」に傍点]の石碑や、そういうものがありもした。街道を一方へ辿って行けば、俚謡《うた》に詠まれている関所があり、更に一方へ辿って行けば、沓掛《くつかけ》の古風の駅《うまやじ》があった。
旅籠には飯盛、青樓《ちゃや》にはさぼし[#「さぼし」に傍点]、そういう名称の遊女がいて、
[#ここから3字下げ]
後供《あとども》は霞ひくなり加賀守《かがのかみ》
[#ここで字下げ終わり]
加賀金沢百万石の大名、前田侯などお通りの節には、行列蜿蜒数里に渡り、その後供など霞むほどであったが、この追分には必ず泊まり、泊まれば宿中の遊女という遊女は召されて纏頭《はな》をいただいた。
そういう追分の鍵屋という旅籠へ、陣十郎と澄江が泊まったのは、
「お泊まりなんし、お泊まりなんし、銭が安うて飯《おまんま》が旨うて、夜具《やぐ》が可《よ》うてお給仕が別嬪、某屋《なにや》はここじゃお泊まりなんし」と、旅人を呼び立て袖を引く、留女《とめおんな》の声のかまびすしい、雀色の黄昏《たそがれ》であった。表へ向いた二階へ通された。
旅装を解き少しくつろぎ、それから障子を細目に開けて、澄江は往来の様子を眺めた。駕籠が行き駄賃馬が通り、旅人の群が後から後から、陸続として通って行き、鈴の音、馬子唄の声、その間にまじって虚無僧の吹く、尺八の音などが聞こえてきた。
と、旅人の群に雑り、旅仕度に深編笠の、若い武士が通って行った。
「あッ」と澄江は思わず云い、あわただしく障子をあけ、身を乗り出してその武士を見た。
肩の格好や歩き方が、恋人|主水《もんど》に似ているからであった。
なおよくよく見定《みきわ》めようとした時、一人の留女が走り出て、その武士の袖を引いた。と、その武士と肩を並べて、これも旅姿に編笠を冠った、年増女が歩いていたが、つと[#「つと」に傍点]その間へ分けて入り、留女を押しやって、その若い武士の片手を取り、いたわる[#「いたわる」に傍点]ような格好に、ズンズン先へ歩いて行った。
が、その拍子に若い武士が、振り返って何気なく、澄江の立っている二階の方を見た。
4
黄昏ではあり笠の中は暗く、武士の顔は不明であった。
(あんな女が附いている。主水様であるはずがない)
そう澄江には思われた。
主水様ともあるお方が、妾以外の女を連れて、こんな所へ暢気らしく、旅するはずがあるものか――そう思われたからである。
とはいえどうにもその武士の姿が、主水に似ていたということが、絶える暇なく主水のことを、心の奥深く思い詰めている澄江の、烈しい恋心を刺激したことは、争われない事実であって、なおうっとり[#「うっとり」に傍点]と佇んで、いつまでもいつまでも見送った。
しかしその武士とその女との組は、旅人の群にまぎれ込み、やがて、間もなく見えなくなった。
婢女《こおんな》の持って来た茶を飲みながら、旅日記をつけていた陣十郎が、この時澄江へ声をかけた。
「澄江殿、茶をめしあがれ」
「はい」と云ったがぼんやりしていた。
「宿場の人通り、珍らしゅうござるか」
「はい」と云ったがぼんやりしていた。
「どうなされた? 元気がござらぬな」
「…………」
「やはりお疲労《つかれ》なされたからであろう」
「…………」
「返辞もなさらぬ。アッハハ。……それゆえ拙者馬か駕籠かに、お乗りなされと申したのじゃ」
「…………」
「按摩なりと呼びましょうかな」
「いいえ。……それにしても……主水様は……」
思わず言葉に出してしまった。
「何! 主水!」と陣十郎は、それまでは優しくいたわるように、穏やかな顔と言葉とで、機嫌よく澄江に話しかけていたが、俄然血の気を頬に漂わせ、敵の体臭
前へ
次へ
全35ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング