を撫でながら云った。
「源女殿、要介じゃ。いつもの発作が起こられたか」
そう云った声が通じたと見える、源女は顔を上げて要介を見たが、
「先生!」とやにわに縋りついた。
「陣十郎が! 水品陣十郎が!」
「陣十郎が? どうなされた?」
「桟敷にいました! 妾《わたし》につき纏い!」
「…………」
要介の顔色もにわかに変わった。
「彼、悪鬼、江戸まで来たか!」
「先生!」
「大丈夫」と要介は云った、
「ついて居る、わし[#「わし」に傍点]が、大丈夫じゃ」
「はい……先生! ……でも妾は! ……恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい!」
「自分で自分を苦しめてはいけない。……自分で自分を恐れさせてはいけない。……秋山要介が付いて居る」
剣鬼と剣聖
1
俺の長くいる場所ではない、こう思って浪之助がその部屋を出たのは、それから間もなくのことであった。
書割や大道具の積んである間を、裏木戸の方へ歩いて行った。
と、何かなしにゾッとした。
で四辺《あたり》を見廻して見た。
書割が積んであるその横手の、薄暗い一所に水品陣十郎が、刺すような眼をしてこちらを見ていた。
「あ」と浪之助は自分ながら馬鹿な、と云うよりも臆病千万な、恐怖に似たような声をあげ、足を釘づけにしてしまった。
陣十郎という男の身の周囲《まわり》を、殺気といおうか妖気といおうか、陰森としたものが取り巻いていて近寄るものを萎縮させる。
――そんなように一瞬思われもした。
(馬鹿な)と自分で自分を嘲けり、浪之助は足を運んだ。
とはいえ陣十郎の前を通る時も、通り過ぎた時も恐ろしかった、不意に切り付けられはしないだろうかと、そんなように思われてならなかった[#「ならなかった」は底本では「なからなかった」]。
その浪之助が小石川富坂町の、自分の屋敷へ戻ろうとして、お茶の水の辺りを歩いていたのは、初夜をとうに過ごしていた頃で、源女《げんじょ》の小屋を出ても気にかかることや、愉快でないことが心にあったので、その心を紛らそうとして、贔屓にしている小料理屋で、時刻を過ごしたからであった。
お組《くみ》はどうしたというのだろう? 病気には相違なさそうだが、何という変な病気なんだろう。秋山要介というような、余りにも有名な人物と、非常に親しくしているようだが、どこでどうしてそうなったのか? 水品陣十郎という悪鬼のような男、あの男もお組や秋山要介と、深い関係があるようだが、その関係はどんなんだろう?
(どっちみち今日は変な日だった)
浪之助はそんなことを思いながら、まだ酔っている熱い頬を、夜に入って青葉の匂いを増した、さわやかな風に吹かせながら、樹木多く人家無く、これが江戸内かと疑われるほど、寂しい凄いお茶の水の境地を、微吟しながら歩いて行った。
遅く出た月が空にあったが、樹木が繁っているために、木洩れの月光がそこここへ、光の斑《ふち》を置いているばかりで、あたりはほとんど闇であった。
不意に行手で閃めくものがあり、悲鳴がそれに続いて聞こえた。
ギョッとして浪之助は足を止めた。
(切られたらしい)と直感された。
(横へ逸れて行ってしまおうか)
ふとそんな気も起こったが、町人とは違い武士であった。
(卑怯な)と思い返して走って行った。
香具師《やし》――それも膏薬売らしい、膏薬箱を胸へかけた男が、右の胴から血を流し、その血の中に埋もれて居り、そうした死骸を見下ろしながら、一人の武士がその前に佇み、一人の女がその横にいて、血刀を懐紙で拭っているという、凄惨無慈悲の光景が、巨大な棒のように射して来ている木洩れの月光に照らされて、浪之助の眼に映った。
フーッと気が遠くなりそうであった。
そう、浪之助はもう少しで、気を失って仆《たお》れそうになった。
「貴殿のおいでを待っていました」
水品陣十郎がそう云った。
2
血刀を女に拭わせている武士、それは水品陣十郎であった。
「拙者水品陣十郎と申す、浪人でござる、お見知り置き下され」
現在人を殺して置いて、本名を宣《なの》る膽の太さ、あらためて浪之助の怯えている心を、底の方から怯やかした。
「はあ」とばかり浪之助は云った。
それ以上は云うこともなく、そう云った声さえ顫えていた。
「……ソ、その者は? ……その死骸は?」
さすがにそれだけは浪之助も訊いた。
「拙者ただ今討ち果したものじゃ」
「はあ。……さようで……何の咎で?」
「裏切りいたした手下ゆえ」
「はあ」
「憎むべきは裏切り者。……言行一致せざる奴。……」
「はあ」
「失礼ながら貴殿のご姓名は?」
「ス、杉浪之助。……」
「杉浪之助殿。……お住居《すまい》は?」
「小石川富坂町。……」
「源女の小屋で今日午後、お眼にかかったことご存知か?」
「サ、さよう。……存じ居ります」
「源女の部屋へ行かれましたな?」
「…………」
「貴殿と源女との関係は?」
「これと云って、何もござらぬ。……一年前に、ただちょっと[#「ちょっと」に傍点]……」
「さようか」と陣十郎は疑わしそうに、刀の切先のようにギラギラ光る、氷のように底冷たい眼を、じっと浪之助の顔へ注いだが、
「秋山要介殿源女の部屋へ、今日参って居られたが、貴殿と秋山殿との関係は?」
「何でもござらぬ、ただ今日、はじめてあそこでお逢いしたまでで。……」
「しかと左様か。偽りはござるまいな」
「何の偽り。……真実でござる」
まるで吟味でも受けているようだ。――浪之助はにわかに不快になり、自分の如何にも生地のないことに、腹立たしさを感じはしたが、蛇に魅入られた蛙《かわず》とでも云おうか、陣十郎という男に見詰められていると、手も足も出ないような恐怖感に、身も魂も襲われるのであった。
女に血潮《ちのり》を充分に拭わせ、やがて陣十郎は悠々と、刀を鞘に納めたが、
「拙者貴殿に悪いことは申さぬ、深い因縁がないとあれば、いよいよもって幸いでござる、源女とも秋山要介とも今後決して関係つけなさるな」
「はあ。……しかし……それは……何故に。……」
「さようさ、拙者が好まぬ故」
「…………」
何という図太い我儘だろう。何という押強《おしつよ》い要求だろう。――そうは思ったが浪之助は、それに反抗して否と云い切るだけの、力を持つことが出来なかった。
で、じっと黙っていた。
「わけても源女と関係なされては不可《いけ》ない。……いかがでござる、よろしゅうござるか」
「…………」
「よろしい、承知なされたそうな。……念のため貴殿にお訊《たず》ねいたすが、貴殿、源女の歌う不思議な歌を、耳にしたことござるかな?」
こう云って探るように睨むように見た。
(あの歌のことだな)と浪之助は思った。
3
(ちちぶのこおり、おがわむら、へみさまにわのひのきのね)
この歌のことだなとすぐ思った。
しかし聞いたとそう云ったら、どんな目に逢わされるか知れたものではない、こう思ったので浪之助は、
「いや」と簡単に否定した。
「聞かない、よろしい。それは結構。……そこで貴殿に申し上げて置く、今後決して聞いてはならぬ。よしんば例え聞くことがあっても、決してその意味を解いてはならぬ。……よろしゅうござるか、浪之助殿」
「よろしゅうござる」と浪之助は云った、仕方がないから云ったのであって、その実彼はそういわれたため、かえってその歌に含まれている意味を、解いてやろうと決心したくらいであった。
こういう問答をしているうちにも、今は血刀を拭い終えて、陣十郎の横手に佇んで、爪楊枝を噛みながら、二人の問答を上の空のように、平然と聞き流している、女の姿を観察した。
三十がらみの年恰好で、櫛巻に髪を結んで居り、絞りの単衣に黒繻子《くろじゅす》の帯、塗りの駒下駄を穿いている。腰の辺りに得も云われない、毒々しい迄の色気があった。顔は整いすぎるほど整っていたが、鼻がひときわ高かったので、ここで一点ぶちこわしていた。毒婦型に嵌まった凄艶の女! そう云えば足りる女であった。
パチリと女は腕《かいな》を打った。どうやら藪蚊が刺したらしい。左の腕の肩まで捲った。月光に浮いて見えたのは、ベッタリ刻られた刺青《いれずみ》であった。
(凄いな)と浪之助はヒヤリとした。
(陣十郎とはいい取り合わせだ)
「念の為に申し上げて置く」
重々しい。ねっとりとした。威嚇的の声で、陣十郎がその時云った。
「貴殿拙者に食言いたせば、ここに斃れているこの男のような、悲惨な運命となりましょう。よろしゅうござるかな、浪之助殿」
云い云い指で膏薬売をさした。
「…………」
無言でゴックリと唾を飲んで、ただ浪之助は頷いて見せた。
「よろしい、では、お別れいたす。……お妻《つま》行こう」
「あい、行きましょう」
月光の圏内から遁れ出て、二人は闇に消えてしまった。
小間使に下女に老婆に老僕に若党の五人を召使に持ち、広い庭を持った立派な屋敷に、気儘に生活《くらし》ている浪之助の身分は、なかなか悪くないと云ってよかろう。
翌日は昼頃までグッスリと寝、起きると物臭さそうに顔を洗い、小綺麗な小間使お里の給仕で、朝昼兼帯の食事をし、青簾《あおすだれ》を背後に縁へ出て、百合と蝦夷菊との咲いている花壇を、浪之助はぼんやり眺めながら、昨日《きのう》一日に起伏した事件を、どう統一したらよかろうかと、一つは暇、一つは興味、一つは自分の将来に、多少関係あるところから、ムッツリ思案しているところへ、
「旦那様、ご来客でございます」と、小間使が知らせて来た。
「誰だ?」と浪之助はうるさそうに云った。
「秋山要介様と仰せられました」
4
泉水築山などのよく見える、風通しのよい上等の客間へ、秋山要介を慇懃に通し、茶菓を備え歓待し、これほどの高名の人物によって、訪問されたことの喜びやら、恐縮やら、光栄やらを感謝しいしい、浪之助が謹ましく応対したのは、それから間もなくのことであった。
貴殿と源女との以前の関係を、昨日源女より承《うけたま》わった。そうして昨日水品陣十郎が、どこやらのお長屋の庭において、誰やらと試合をしていたのを、貴殿御覧になられたと、そう源女に仰せられたそうな、そのお長屋がどこにあるか、それをお知らせにあずかりたく、拙者参上いたしたのでござると磊落な調子で要介は云った。
「陣十郎の現在の住居を、是非とも承知いたしたいので」
こう要介は附け加えた。
「本郷の榊原式部少輔《さかきばらしきぶしょうゆう》様の、お長屋の一軒でございました」と、浪之助はあの時見た一部始終を話した。
「何人のお長屋でござりましたかな?」
「さあそれは、うっかり致しまして、確かめませんでござりましたが、よろしくば私ご案内いたし」
「忝《かたじ》けのう[#「忝《かたじ》けのう」は底本では「恭《かたじ》けのう」]ござる、では遠慮なく、夕景にでもなりましたら、散策かたがたご同行を願い……」
「かしこまりましてござります。……ところで……」と浪之助は言葉を改め、昨夜お茶の水の寂しい境地で、その水品陣十郎に逢い、一種の脅迫を受けたことを話した。
じっと聞いていた要介は、次第にその眉をひそめたが、
「彼の兇悪まだ止まぬと見える。……まことに恐るべきは彼の悪剣……」と独言のように呟いた。
「先生、悪剣と申しますは?」と、浪之助は探るように訊いた。
要介はしばらく沈黙したまま、泉水の鯉が時々刎ねて、水面へ姿を現わして、そのつど霧のような飛沫を上げ、岸に咲いている紫陽花《あじさい》の花が、その飛沫に濡れたのか、陽に艶めいて見えるさわやかな景へ、鋭い瞳を注いでいたが、
「柳生流の『車ノ返シ』甲源一刀流の『下手ノ切』この二法を並用したらしい、彼独特の剣技でござる」
こう云って浪之助を正面から見詰めた。
その眼をまぶしそうに外しながら、
「しかし先生などの腕前からすれば、陣十郎の腕前など……」
「なかなか以って、そうはいかぬ。……一年前に上州|間庭《まにわ》、樋口十郎左衛門殿の道場において、偶然彼と逢いましてな、懇望されて立合いましたが……」
「勝負は?」
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