しん》と廻っている。
 どっと喝采が見物の中から起こった。
 しかしどうしたのかその一刹那、ポタリと独楽が、掌から落ち、源女は放心でもしたように、桟敷の一所を凝然と見詰めた。


 恐怖がその顔に現われている。
(どうしたんだろう?)と驚きながら、源女の見詰めている方角へ、浪之助も眼をやった。
(や)とこれも驚いた。
 そこに、桟敷に、見物にまじって、榊原|式部少輔《しきぶしょうゆう》様のお長屋の庭で、老武士を相手に試合をしていた、陣十郎という壮年武士が、舞台を睨《にら》むように見ているではないか。
 単なる浪之助の思いなしばかりでなく、陣十郎の眼と源女の眼とは、互いに睨み合っているようであり、源女が独楽を掌から落とし、放心したように茫然としたのも、陣十郎の姿を認めたからであると、そんなように思われる節があった。
(二人の間には何かあるな)
 そんなように思われてならなかった。
「弘法にも筆のあやまり、名人の手からも水が洩れる、生独楽を落としました源女太夫のあやまり、やり直しは幾重にもご用捨……」
 床から独楽を拾い上げ、顫えを帯びた含み声で、こうテレ隠しのように口上を述べ、源女が芸を続け出したのは、それから直ぐのことであった。
 これがかえって愛嬌になったか、見物は湧きもしなかった。
 その後これといって失敗もなく、昔ながらに鮮かに、源女は独楽を自由自在に使った。
 一基の燈籠に独楽が投げ込まれるや、牡丹が花弁《はなびら》を開くように、燈籠は紙壁《しへき》を四方に開き、百目|蝋燭《ろうそく》を露出させ、焔の先から水を吹き出し、つづいてもう一基の燈籠の中から、独楽が自ずと舞い上り、それを源女が手へ戻した途端、そのもう一基の燈籠も、紙壁を開き水を吹き出した。この最後の芸を終えて、悠々と源女が舞台から消えると、見物達は拍手を送った。
 浪之助は小屋を出て、裏木戸の方へ廻って行った。
「久しぶりだな、爺《とっ》つぁん」
 木戸口にいた爺《じい》さんへ、こう浪之助は声をかけた。
「へい」と木戸番の爺《おやじ》は云った。
「これは杉様で、お珍しい」
「たっしゃでいいな、一年ぶりだ」
「旦那様もおたっしゃのご様子で」
「源女が帰って出演《で》ているようだな」
「よくご存知で、ほんの昨今から」
「ちょっと源女に逢いたいのだが」
「さあさあどうぞ」と草履《ぞうり》を揃えた。
 心付を渡して草履を突っかけた。
「源女さんのお部屋は一番奥で」
「そうかい」と浪之助は歩いて行った。
 書割だの大道具だのが積み重ねてある、黴臭い薄暗い舞台裏を通り、並んでいる部屋々々の暖簾《のれん》の前を通り、一番奥の部屋の前へ立った。
 長い暖簾を掲げて入った。
 衣装|籠《つづら》に寄りかかりながら、裃をさえ取ろうともせず、源女はグッタリと坐っていた。
「お組、わしだ[#「わしだ」に傍点]」と浪之助は云った。
 と、源女は閉じていた眼を、さもだるそうに[#「だるそうに」に傍点]細目をあけたが、
「浪之助様。……存じて居りました」
 そう云ってまたも眼をとじた。
 衰弱していると云ってもよく、冷淡であると云ってもよい、極めて素気ない態度であった。
 立ったまま坐りもせず、そういう昔の恋人の、源女の様子を眺めながら、浪之助は意外さと寂しさと、多少の怒りとを心に感じた。


「知っていたとは? ……何を知って?」
「桟敷にお居でなされましたことを」
 眼をとじたまま云うのであった。
「では舞台で観ていたのか」
「ええ」と源女は眼をあけた。
「浪之助様がお居でになる。――そう思って見て居りました」
「ふむ」と浪之助は鼻で云った。
「ただそれだけか。え、お組」
「…………」
「一年ぶりで逢った二人だ。浪之助様がお居でになると、ただそう思って見ていただけか」
 少し愚痴とは思ったが、そう云わざるを得なかった。
 なるほど二人の往昔《そのかみ》の仲は、死ぬの生きるの夫婦《いっしょ》になろうのと、そういったような深い烈しい、燃え立つような仲ではなかった。とはいえ双方好き合い愛し合った。恋であったことには疑いなく、しかも争いをしたのでもなく、談合づくで別れたのでもなく、恋は続いていたのであった。そうだ、続いていたのであった。それだのに女は一言も云わず、別れましょうとも切れましょうとも、何とも云わずに姿を消し、今日迄|消息《たより》しなかったのである。さて、ところで、今逢った。と、そのような冷淡なのである。
 愚痴も厭味も浪之助としては、云い出さないではいられないではないか。
 で、そう云って睨むように見詰めた。
「それにさ、いかに心持が、わしから冷やかになっているにしても、坐れとぐらい何故云ってくれぬ」
 いかさま浪之助はまだ立っていた。
 これには源女も済まなく思ったか、
「どうぞ」と云うと水玉を散らした、友禅の坐蒲団を押しやった。
 坐ったが心が充たされず、尚浪之助は白い眼で、源女の顔をまじまじと見た。
 源女は又も眼を閉じて、衣装|籠《つづら》に身をもたせていた。
 眼の縁辺りが薄く隈取られ、小鼻の左右に溝が出来、見れば意外に憔悴もしてい、病んででもいるように疲《や》せて[#「疲《や》せて」はママ]もいた。
(ひどく苦労をしたらしい)
 そう思うと浪之助の心持が和《なご》み、女を憐れむ情愛が、胸に暖かく流れて来た。
「お組、いままでどこにいたのだ?」
「旅に……旅に……諸方の旅に」
「旅を稼いでいたというのか?」
「いいえ。……でも……ええ旅に。……」
 言葉が濁り曖昧であった。
「旅はいずこを……どの方面を?」
「どこと云って、ただあちらこちらを」
「ふむ。……一座を作って?」
「いいえ、一人で……でも時々は……一座を作っても居りました」
 やはり言葉が濁るのであった。
「なぜそれにしても旅へ出ますと、わし[#「わし」に傍点]に話してはくれなかったのだ」
「…………」
 源女は返辞《へんじ》をしなかった。
 睫毛が顫え唇の左右が、痙攣をしたばかりであった。
 窓から西陽が射し込んで来て、衣桁にかけてある着替えの衣装の、派手な模様を照らしていた。
 二三度入り口の暖簾をかかげて、一座の者らしい男や女やが、顔を差し込んで覗いたが、訳あるらしい二人の様子を見ると、入ろうともせず行ってしまった。
「陣十郎という武士を知っているかな?」
 話を転じて浪之助は云った。
 と、源女は首をもたげた。


「陣十郎! ……陣十郎! ……水品《みずしな》陣十郎! ……あなたこそどうしてあの男を!」
 そう云うと源女はのしかかる[#「のしかかる」に傍点]ように、衣装籠から身を乗り出した。
 恐怖と憎悪とがあからさまに、パッと見開いた眼にあった。
 凄じいと云ってもいいような、相手の態度に圧せられて、浪之助はかえってたじろいだ。
 「いやわし[#「わし」に傍点]はただほんの……それも偶然|先刻《さっき》方……榊原様のお長屋で……試合をしていたのを通りかかって……だがその男が桟敷にいたので……」
「ただそれだけでございますか」
 源女は安心したように、そう云うと躰をグッタリとさせ、衣装籠へまた寄りかかった。
 そうして眼を閉じ黙ってしまったが、やがて浪之助へ云うというより、自分自身へ云うように、譫言《うわごと》のように呟いた。
「陣十郎、水品陣十郎……何と云おう、悪鬼と云おうか……あの男のためにまア妾《わたし》は……これまでどんなに、まあどんなに……苦しめられ苦しめられたことか! ……騙《だま》され賺《す》かされ怯《おび》やかされ、旅でさんざん苦しめられた。……こんなにしたのはあの男だ。妾をこんなに、こんなにしたのは! ……病人に、白痴に、片輪者に! ……先生、お助け下さりませ! ……でも妾はどうあろうと、あれをどうともして思い出さなけりゃア……でもお許し下さりませ、思い出せないのでございます」
 不意に源女は節をつけて、歌うように云い出した。
[#ここから1字下げ]
「ちちぶのこおり
おがわむら
へみさまにわの
ひのきのね
むかしはあったということじゃ
いまはかわってせんのうま
ごひゃくのうまのうまかいの
、、、、
、、、、
、、、、
まぐさのやまや
そこなしの
かわのなかじのいわむろの
[#ここで字下げ終わり]
 ……さあその後は何といったかしら? ……思い出せない思い出せない。……そうしてあそこはどこだったかしら? ……山に谷に森に林に、岩屋に盆地に沼に川に、そうして滝があったかもしれない。
 大きなお屋敷もあったはずだが。……そうしてまるで酒顛童子《しゅてんどうじ》のような、恐ろしいお爺さんがいたはずだが。……思い出せない、思い出せない。……」
 顔を上向け宙へ眼をやり、額に汗をにじませて、何か思い出を辿るように、何かを思い出そうとするように、源女は譫言《うわごと》のように云うのであった。
 癲癇の発作の起こる前の、痴呆状態とでも云うべきであろうか、そういう源女の顔も姿も、いつもとは異《ちが》って別人のように見えた。
 浪之助は魘《おそ》われたようにゾッとした。
 と、不意に前のめりに、源女は畳へ突っ伏した。
 精根をすっかり疲労《つかれ》させられたらしい。
「お組」と仰天していざり寄り浪之助は抱き起こした。
「しっかりおし、心をたしかに!」
 その時背後から声がかかった。
「源女殿いつもの病気でござるか」
 驚いて浪之助は振り返って見た。
 いつ来たものか三十五六の武士が、眉をひそめながら立っていた。


 額広く眉太く、眼は鳳眼《ほうがん》といって気高く鋭く、それでいて愛嬌があり、鼻はあくまで高かったが、鼻梁が太いので険しくなく、仁中《じんちゅう》の深いのは徳のある証拠、唇は薄くなく厚くない。程よいけれど、大形であった。色が白く頬が豊かで、顎も角ばらず円味づいていた。身長は五尺五六寸もあろうか、肉付は逞《たくま》しくあったけれど贅肉なしに引きしまっている。髪は総髪の大髻《おおたぶさ》で、髻《もとどり》の紐は濃紫《こむらさき》であった。黒の紋付に同じ羽織、白博多の帯をしめ、無反《むぞり》に近い長めの大小の、柄を白糸で巻いたのを差し、わざと袴をつけていないのは、無造作で磊落で瀟洒の性質をさながらに現わしていると云ってよろしく白博多の帯と映り合って、羽織の紐が髻と同じ、濃紫であるのは高尚であった。
 そういう武士が立っていた。
 と見てとって浪之助は、思わず「あッ」と声を上げ、抱えていた源女を放したかと思うと、四五尺がところ後へ辷《すべ》り、膝へ手を置いてかしこまってしまった。
 武士の何者かを知っているからであった。
 川越の城主三十五万石、松平大和守の家臣であって、知行は堂々たる五百石、新影流の剣道指南、秋山要左衛門の子息であり、侠骨凌々たるところから、博徒赤尾の磯五郎を助け、縄張出入などに関係したあげく、わざと勘当されて浪人となり、江戸へいでて技を磨き、根岸|御行《みゆき》の松に道場を設け、新影流を教授して居り、年齢は男盛りの三十五、それでいて新影流は無双の達人、神刀無念流の戸ヶ崎熊太郎や、甲源一刀流の辺見《へんみ》多四郎や、小野派一刀流の浅利又七郎や、北辰一刀流の千葉周作等、前後して輩出した名人達と、伯仲《はくちゅう》[#ルビの「はくちゅう」は底本では「はちゅう」]の間にあったという、そういう達人の秋山要介正勝《あきやまようすけまさかつ》! 武士は実にその人なのであった。
 勿論浪之助はかつてこれ迄、秋山要介と話したこともなく、教えを受けたこともなかったのであるが、それほどの高名の剣豪であった、江戸に住居する武士という武士は、要介を知らない者はなく、そういう意味で、浪之助も、諸方で遥拝して知っていたのであった。
 そういう要介が現われたのである、かしこまったのは当然といえよう。
 かしこまった浪之助の様子を見ると、要介はかえって気の毒そうに、微笑を浮かべ会釈をしたが、さりとて別に何とも云わず、仆《たお》れている源女へ近寄って行き、片膝つくと手を延ばし、源女の背
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