「相打ち」
「…………」
「見事に足を。……」
「足を?」
「さよう。払われました」
「…………」
「拙者は面を取りましたが」
 浪之助は黙ってしまった。
 当代剣豪十人を選んで、日本の代表的人物としたら、当然その中に入るべき人物、秋山要介正勝ほどの人が、相打ちになったというからは、彼水品陣十郎という男、伎倆《うで》は伍格《ごかく》と見なければならない。
(そんなに出来る男なのかなア)
 嘘のように思われてならなかった。


 用意して置いた酒肴を出した。
「はじめて参ったのにこのご歓待、要介少なからず恐縮に存ずる」
 こう云いながらも遠慮せず、悠々と盃を重ねる態度が、明朗であり闊達であり、先輩も後輩も無視していて、真に磊落であり洒落であって、しかも本来が五百石取りの、先《まず》は大身の家柄の、御曹司である品位は落とさず、浪之助には慕わしくてならなかった。
「陣十郎のその悪剣、何と申す名称でござりますか?」
 浪之助はそう訊いて見た。
「逆の車と申しておりましたよ。勿論邪道の悪剣ゆえ、正当の名称はござらぬが、彼自身勝手に附けたものと見えます。……まずこう中段に太刀を構える」
 こう云いながら要介は、白扇を取るとグッと構えた。一尺足らずの獲物ながら、名人の構えた扇であった、浪之助にはその扇が、差しつけられた白刃より凄く、要介の躰《からだ》がそれの背後に、悉皆《すっかり》隠れたかのように思われた。
「と、こうグ――と左斜に、太刀を静かに引くのでござる」
 云い云い要介は扇を引いて見せた。
「さながら水の引くが如く。……云う迄もなく誘いの隙じゃ。……誘いの隙じゃと知りながらも、百人が百人それに乗り、一歩踏み出すか打ち込むかする。……と、その機先を素早く制し……柳生の業《わざ》車ノ返シ、そいつでこう一旦返す」
 扇をクルリと下返しに返した。
「ハッと相手が動揺した途端、間髪を入れず下手ノ切、甲源一刀流の下手ノ切……」
 こう云うと要介は左膝の辺りまで、扇を引き付けて八双に構え、すぐに刎ね返して掬い切りをした。
「こいつで来るのじゃ、さようこいつで。……下れば足、上れば胴、もう一段上れば顎へ来る……必ずやられる、必ず切られる」
「しかしそのように解って居りますれば、その術を破る方法が、いくらもあるように存ぜられますが」
「それが無い、こいつが業じゃ。……分解して云えば今のようではあるが、分解も何も差し許さず、講釈も何も超越して、序破急を一時に行なうと云おうか、天地人三才を同時にやると云おうか、疾風迅雷無二無三、敵ながら天晴《あっぱ》れと褒めたくなるほどの、真に神妙な早業で、しかも充分のネバリをもって、石火の如くに行なわれては、ほとんど防ぐに術が無い」
「はあ」と浪之助は溜息をした。
「恐ろしい業でござりまするな」
「恐ろしい業じゃ、恐ろしい悪剣じゃ。……爾来拙者苦心に苦心し、あの悪剣を破ろうものと、考案工夫をいたしおるが……」
「考案おつきになりませぬか?」
「彼のあの時の太刀さばきが、いまだに眼先にチラツイていて、退きませぬよ、消えませぬよ」
「はあ」とまたも浪之助は、溜息せざるを得なかった。
 それにしても昨夜お茶の水で、陣十郎に脅迫された時、反抗しないでよいことをした、変に反抗でもしようものなら、逆ノ車でズンと一刀に、切り仆されてしまったことだろう。
 浪之助にはそう思われた。
 二人は盃を重ねて行った。
 いつか夕暮となっていて、庭の若竹の葉末辺りに、螢の光が淡く燈《とも》されていた。


 酒に意外に時を費し、二人が屋敷から立ち出でたのは、相当夜の更けた頃であった。
「あまり早く出かけて行って、その屋敷のあたりをまいまい[#「まいまい」に傍点]し、陣十郎に目付けられでもしたら、面白くないことになる、おそい方がよろしゅうござる」と、要介はそう云ってかえってよろこんだ。
 家にいる時も外へ出てからも、どういう因縁から源女のお組などと、先生にはお懇意《ちかづき》[#ルビの「ちかづき」は底本では「ちかずき」]になりましたか? お組のうたった不思議な歌の意味、あれはどうなのでござります? 何が故に水品陣十郎は、先生やお組を狙うのですかと、浪之助はいろいろ要介に対して、訊きたいことがあったけれど、一つは昨夜陣十郎によって、そういうことに触れてはならぬと、威嚇されたのが身に泌みてい、一つは要介その人も、そういうことに触れられることを、好んでいないように思われたので、つい浪之助は訊きそびれてしまった。
 こうして本郷の榊原様の、お屋敷地辺りまでやって来た。
 屋敷町は更けるに早く、ほとんど人の通りなどなく、家々の門は差し固められ、甍《いらか》が今夜も明かな月夜、その月光に照らされて、水に濡れたように見えるばかりであった。
「先生、このお屋敷でございます」と、浪之助はお長屋の一軒の前で立った。
 二百石取りか三百石取りか、相当立派な知行取りの、お長屋であることは構えで知れた。
 板塀が高くかかってい、その上に植込みの槇や朴が、葉を茂らせてかかってい、その葉がこれも月の光に燻銀《いぶしぎん》のように薄光っていた。
「表門の方へ廻って見ましょう」
 こう云って要介が先に立ち、二三間歩みを運んだ時、消魂《けたたま》しい叫声が邸内から聞こえ、突然横手の木戸が開き、人影が道へ躍り出た。
 一人の武士が白刃を下げ、空いている片手に一人の女を、横抱きにして引っ抱えてい、それを追ってもう一人の武士が、これも白刃を提《ひっさ》げて、跣足《はだし》のまま追って出て来た。
「汝《おのれ》! ……待て! ……極重悪人」
 追って出た若い武士の叫びであった。
「お兄様! ……お兄様!」
 抱えられている娘は悲鳴をあげた。
「陣十郎だ!」とその瞬間、要介は叫んで足を返した。
 娘を抱えている武士が紛う方もない、水品陣十郎であるからであった。
 陣十郎は躊躇したらしく、一瞬間立ち止まった。
 背後《うしろ》から若い武士が追って来る、行手には二人の武士がいる。何方《どこ》へ走ろうかと躊躇したらしい。
 そこへ追いついた若い武士は、
「父上の敵《かたき》、くたばれ悪漢!」
 声諸共切り込んだ。
「切れ――ッ」と差し出したのは娘の躰《からだ》!
「あッ」とばかりあやうくも、白刃を三寸の宙で止め。
「人楯とは汝《おのれ》卑怯者!」
「お兄様お兄様|妾《わたし》もろとも、陣十郎を切ってお父様の敵を!」
 叫ぶ娘の澄江《すみえ》をグッと、再び抱え込んだ陣十郎は、二人の武士に向い威嚇的に、白刃を振り廻し叱咤した。
「退け! 邪魔するな! 致さば切るぞ」
 駆け抜けようとするその前へ、両手を拡げて要介は立った。


「眼《まなこ》眩《くら》んだか水品陣十郎! 拙者が見えぬか秋山要介だ!」
「なに秋山?」とタジタジ[#「タジタジ」は底本では「タヂタヂ」]としたが、
「いかにも秋山! ウ――ム南無三!」
「事情は知らぬが日頃の悪業、邪は汝《おのれ》にあるは必定! ここは通さぬ、組み止めるぞ! ……」
 途端に背後の若い武士が叫んだ。
「我々兄妹はこの家の者、榊原家の家臣でござって、拙者は鴫澤主水《しぎさわもんど》と申し、妹儀は澄江と申す。それなる男はいささかの縁辺《しるべ》、最近我が家の寄宿者《かかりうど》となり、我等養い居りましたるところ、わずかのことよりたった今し方、われらが父庄右衛門を殺し、ご覧のとおり妹を誘拐《かどわか》し、遁れようといたし居りまする。承わりますればご貴殿には、ご高名の秋山先生との御事、助太刀お願いいたしまする」
「心得てござる」と要介は云った。
「そうなくとも水品陣十郎に対し、拙者従来確執ござる。討って取らねばならぬ奴、まして貴殿ご兄妹の敵《かたき》とありましては、いよいよもって見遁し難い。……助太刀たしかに承知いたした。……貴殿そなたより切ってかかられよ。拙者組み止めお引き渡す。……浪之助殿、貴殿も共々」
「承知しました」と浪之助も云って、本来は小胆である彼ではあったが、傍らには要介が居ることではあり、そうでなくてもこういう場に臨めば、そこは武士で義侠の血も湧き、勇気も勃然と起こるものであり、やにわに刀を引き抜いた。
 腹背敵を受けたばかりか、その中の一人は剣聖ともいうべき、秋山要介正勝であった。剣鬼のような水品陣十郎も、進退|谷《きわ》まったと知ったらしい、突立ったまま居縮んだが、抱えていた澄江を地へ下すと、肩を片足でグッと踏みつけ、大上段に刀を振り冠り、
「秋山氏か、久々に御意得た。いかにも貴殿の云われるとおり、拙者と貴殿とは敵《かたき》同志、と云うよりも競争相手、討つか討たれるか行く道は一つ、しょせんは命の遣り取りする間、ここで逢ったも因縁でござろう、勝負承知、逃げ隠れはしない。……主水、主水、鴫澤主水、汝《おのれ》に対しても云い分はない、いかにもこの方汝の父親、庄右衛門を武士の意地で、今し方切ってすてたは確かだ、親の敵に相違ない善悪正邪を論じたなら、五分の理屈はこっちにもある。が、云うまい理屈は嫌いだ! 悪人に徹底しようぞ。ワッハッハッ、拙者は悪人! 悪人なるが故に義理はいらぬ。そこで恋しい女があれば、理不尽であろうと奪って逃げる。そこで澄江を奪ったのよ。悪人であれば人情は無益、こっちの命のあぶない瀬戸際、そうなっては恋女も情婦もない、人質、人楯、生ける贄《にえ》、土足にかけてこの有様だ! かかれ秋山、かかれ主水!、一寸と動かば振り冠った刀、澄江の上に落ちかかるぞよ!」
 悪人の本性を如実に現わし、左右に向かってこう喚くや、月光にドギツク振り冠った刀を、上げつ下げつ切る真似をして、陣十郎は心よげに笑った。
 切歯はしたが澄江の命があぶない、要介も主水もかかりかね、足ずりをして躊躇《ためら》った。


 が、その時澄江が叫んだ。
「躊躇はご無用|妾《わたし》を殺して、陣十郎をお討取り下さりませ。……まずこの如く!」と繊手《せんしゅ》を揮った。
「ワッ」と陣十郎が途端に叫び、飛び退くと刀を肩に担ぎ、不覚にも一方へよろめいた。
 そこを目掛けて、
「二つになれ!」と、切り込んだは主水の刀であった。
 音!
 鏘然と一合鳴った。
 陣十郎が払ったのである。
 と見て取って翻然と、要介は無手で躍りかかった。
 剣光!
 斜に一流れした。
 陣十郎の横なぐりだ。
 が、何の要介が、切られてなろうか飛び違った。
 そこを二度目に切り込んだ主水!
 またも鏘然と音がして、陣十郎の払った刀の、切先が延びて主水の股へ!
「あッ」
 主水が地に仆れた。
「お兄様!」と簪《かんざし》を逆手に、それで陣十郎の足の甲を突き、機先を制した澄江が叫び、地を這って主水へ近寄った。
「今は憎さが!」と吼えながら、何という残虐陣十郎は、澄江の背を拝み打ち!
 切ろうとした一刹那風を切って、浪之助の投げた石|飛礫《つぶて》が、陣十郎の額へ来た。
「チェーッ」
 片手で払い落とした隙を、ドッとあて[#「あて」に傍点]た躰《たい》にあたり[#「あたり」に傍点]!
 要介の精妙の躰あたりを食らい、もんどり[#「もんどり」に傍点]打って二間の彼方《かなた》へ、毬のように飛ばされた陣十郎! とはいえ彼も鍛えた躰だ、飛燕の軽さ飛び起きるや、這い廻っている主水の傍を、矢のように駈け抜けて一散に脱兎!
「待て!」と要介は追っかけたが、
「浪之助殿、貴殿は居残り、主水殿と澄江殿を介抱なされい!」
「かしこまりました」
「頼む」と云いすて、要介は韋駄天追っかけたが、この辺りの地理に詳しい彼、陣十郎はどこへ行ったものか露路か小路へ逃げ込んだらしい、既に姿は見えなかった。
 が、この頃から物音に驚き、お長屋の窓や潜門《くぐり》が開き、人々が顔を出し、
「どうしたのだ?」
「火事か?」
「盗賊か?」
 などと、口々に罵った。
 要介はそこで、大音に叫んだ。
「悪漢、鴫澤家に禍《わざわい》いたし、この界隈に隠れ居ります。お出合い下されお探し下され」
「行け」「探せ」と人々は叫び、追っ取り刀で走り出し
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