を診て貰ったところ、一人柳営お抱えの洋医、平賀|杏里《きょうり》殿がこういうことを云われた。――非常に恐ろしい境地へ行き、非常に烈しい刺激を受け、精神的に大打撃を受け、その結果大熱を体に発し、一月とか二月とかの長い間、人事不省になっていた者は、その間のことはいうまでもなく、それ以前の事もある程度まで、全然忘却してしまうということが往々にあるが、源女殿の場合がそうらしい。が、源女殿をその境地へ、もう一度連れて行けば思い出すし、事実その境地へ行かずとも、その境地と酷似している境地へ、源女殿を置くことが出来たなら、忘却していた過去のことを、卒然と記憶に返すであろうと。……しかし源女殿をその境地へ、連れて行くということは出来難い。その境地が不明なのだから。同じような境地へ源女殿を置く。ということもむずかしい。どんな境地かということを、わし[#「わし」に傍点]は確実に知らないのだから。……しかしわし[#「わし」に傍点]はこう思った。あの歌の前半の歌われている、秩父地方へ出かけて行って、気長く源女殿をそこに住ませて、源女殿の様子を見守っていたら、何か暗示を得ようもしれないとな。そこでお連れして来たのだが。……しかるに源女殿のそういう秘密を、わし[#「わし」に傍点]の外にもう一人、同じように知っている者がある。他でもない水品陣十郎じゃ」
 こう云って来て要介は、眉をひそめて沈黙した。
 剣鬼のような吸血鬼のような、陣十郎という男のことを、思い出すことの不愉快さ、それを露骨に現わさしたところの、それは気|不味《まず》い[#「不味《まず》い」は底本では「不味《まずい》い」]沈黙であった。
 浪之助も陣十郎は嫌いであり、嫌い以上に恐ろしくもあり、口に出すことさえ厭であったが、しかし源女や要介が、どういう関係からあの吸血鬼と、知り合いになったかということについては、窺い知りたく思っていた。
 それがどうやら知れそうであった。
 そこで更に固唾を呑む気持で、要介の語るのを待ち構えた。


「今から十月ほど前であったよ」と、要介は話をつづけ出した。
「信濃方面へ旅をした。武術の修行というのではなく、例によっての風来坊、漫然と旅をしたまでだが沓掛《くつかけ》の宿で一夜泊まった。明月の夜であったので、わしは宿《やど》を出て宿《しゅく》を歩き、つい宿外れまでさまよって行った。と、歌声が聞こえてきた。云うまでも[#「云うまでも」は底本では「云までも」]なく例の歌さ。はてなと思って足を止めると、狂乱じみた若い女が、その歌をうたって歩いて来る。と、その後から一人の武士が、急ぎ足で追いついたが、やにわに女を蹴倒すと、踏む撲るの乱暴狼藉『汝《おのれ》逃げようとて逃がそうや』こう言っての乱暴狼藉! その瞬間女は正気づいたらしく、刎ね起きると拙者を認め、走り寄って縋りつき、お助け下されと申すのじゃ。心得たりと進み出て、月明で武士を見れば、以前樋口十郎左衛門殿方で、立合ったことのある水品陣十郎! 先方も拙者を認めたと見え、しかも形勢非なりと知ったか、『秋山殿でござったか、その女は源女と申し、発狂の女芸人、拙者故あって今日まで、保護を加えて参りましたが、お望みならば貴殿に譲る』と、このようなヘラズ口をきいたあげく、匆慌《そうこう》として立ち去ったので、源女殿を宿へ連れて参り、事情を詳しく訊いたところ、江戸両国の曲独楽の太夫、養母というものに悪婆あって長崎の異人に妾《めかけ》に出そうという。それを避けて旅へ出で、ある山国へ巡業したところ、大森林、大傾斜、百千頭も馬のいるところ、そういう所の大きな屋敷へ、どういう訳でか連れて行かれた。そうしてそこで恐ろしい目に逢い、妾《わたし》は正気を失ったらしい。正気づいて見れば陣十郎という男が、妾の側に附いていて、それ以来ずっとその男が、あらゆる圧迫と虐待とを加え、妾にその土地へ連れて行け、お前の謡う歌にある土地へ、連れて行けと云って強いに強い、爾来その男に諸々方々を、連れ歩かれたとこう云うのじゃ。……それからわし[#「わし」に傍点]は源女殿を連れて、江戸へ帰って屋敷へ置いたが、そこは女芸人のことで、もう一度舞台に出たいという。そこで元の座へ出したところ、陣十郎に見付けられ、貴殿などとも知り合うようになった。……」
「よく解《わか》りましてござります」
 要介の長い話を聞き、浪之助はこれまでの疑問を融かした。
「と致しますと陣十郎も、例の黄金の伝説的秘密を、承知いたして居りまして、それを探り出そうと心掛け、源女を抑えて居りましたので……」
「さよう」と要介は頷いて云った「逸見多四郎殿の門弟として、秩父地方に永らく居た彼、黄金の秘密は知悉しているはずじゃ」
 この時部屋の外の廊下に、つつましい人の足音がし、
「ご免下され」という男の声がし、襖が開いて小紅屋の主人が、恭しくかしこまった顔を出し、
「逸見の殿様お越しにござります。へい」と云って頭を下げた。
 見れば主人の背後にあたって、威厳のある初老の立派な武士が、気軽にニコヤカに微笑しながら、部屋を覗くようにして立っていた。
「逸見多四郎参上いたしました」


「や、これは!」とさすがの要介も、郷士ながらも所の領主、松平|大和守《やまとのかみ》には客分にあつかわれ、新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》の後胤甲斐源氏の名門であり、剣を取らせては海内の名人、しかも家計は豊かであって、倉入り千俵と云われて居り、門弟の数|大略《おおよそ》二千、そういう人物の逸見多四郎が、気軽にこのような旅籠屋などへ、それも留守の間に道場の看板、門の大札[#「大札」は底本では「大礼」]を外して行ったところの、要介を訪ねて来ようなどとは、要介本人思いもしなかったところへ、そのように気軽に訪ねて来られたので、さすがに驚いて立ち上った。
「これはこれは逸見先生、わざわざご来訪下されましたか。いざまずこれへ! これへ!」
「しからばご免」と仙台平の袴に、黒羽二重の衣裳羽織、威厳を保った多四郎は、静かに部屋の中へ入って来た。
 座が定《き》まってさて挨拶! という時に要介の機転、床の間に立ててあった例の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、恭しく抱えて持って来るや、前へ差し出しその前に坐り、
「実は其《それがし》先生お屋敷へ、本日参上いたしましたところ、江戸へ参ってご不在との御事。と、いつもの悪い癖が――酔興とでも申しましょうか、悪い癖がムラムラと起こりまして、少しく無礼とは存じましたが、門弟の方へ一応断わり、この大門札[#「門札」は底本では「門礼」]ひき外し、旅舎まで持参いたしました、がしかし決して粗末にはいたさず、床の間へ立てかけ見事の筆蹟を、打ち眺め居りましてござります。が、それにしてもこの門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、ひき外し持参いたしましたればこそ、かかる旅舎などへ先生ほどのお方を、お招きすること出来ました次第、その術策|的中《あた》りましてござるよ。ハッハッハッ」と笑ったが、それは爽かな笑いでもあった。
 と、多四郎もそれに合わせ、こだわらぬ爽かな笑い声を立てたが、
「その儀でござる、実は其《それがし》所用あって江戸へ参り、三日不在いたしまして、先刻帰宅いたしましたところ、ご高名の秋山先生が、不在中三回もお訪ね下され、三回目の本日門の札を[#「札を」は底本では「礼を」]、ひき外しお持ちかえりなされたとのこと、門弟の一人より承《うけたま》わり、三回のご来訪に恐縮いたし、留守を申し訳なく存じますと共に、その門弟へ申したような次第――、門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外して持ち去った仁、秋山要介先生でよかった。他の仁ならこの多四郎、決して生かして置きませぬ。秋山要介先生でよかった。その秋山先生は、奇嬌洒脱の面白い方じゃ、いまだ一度もお目にかからぬが、勇ましいお噂は承って居る。五百石といえば堂々たる知行、その知行取りの剣道指南役の、嫡男の身に産れながら、家督を取らず浪人し、遊侠の徒と交際《まじわ》られ、権威に屈せず武威に恐れず、富に阿《おも》ねらず貧に恥じず、天空海濶に振舞われる当代での英傑であろう。門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]持って行かれたも、単なる風狂に相違ない。宿の小紅屋に居られるなら、早速参ってお目にかかろうとな。――そこで参上いたしたような次第、お目にかかれて幸甚でござった」
「杉氏どうじゃな」と要介は、浪之助の方へ声をかけた。


「人物は人物を見抜くと云ったが、どうじゃ杉氏、その通りであろう」
 こう云ったがさらに要介は、多四郎の方へ顔を向け、
「ここに居られるは杉浪之助殿|某《それがし》の知己友人でござる。門札[#「門札」は底本では「門礼」]外して持ち参ったことを、ひどく心配いたしましたについて、いや拙者だからそれはよい、余人ならばよろしくないと云うことは逸見先生もご存知、人物は人物を見抜くものじゃと、今し方申して居りました所で、……杉氏何と思われるな?」
「ぼんやり致しましてござります」
 浪之助はこう云うと、恰も夢から醒めたように、眼を大きくして溜息を吐いた。
「鳳凰《ほうおう》と麒麟《きりん》! 鳳凰と麒麟! 名優同志の芝居のようで。見事のご対談でございますなあ」
 逸見多四郎がやって来た! さあ大変! 凄いことが起こるぞ! 激論! 無礼咎め! 切合い! 切合い! と、その瞬間思ったところ、事は全く反対となり、秋山先生で先ずよかった! ……ということになってしまい、十年の知己ででもあるかのように、笑い合い和み合い尊敬し合っている。で浪之助は恍惚《うっとり》として、両雄の対談を聞いていたのであった。
「酒だ」と要介は朗かに云った。
「頼みある兵《つわもの》の交際に、酒がなくては物足りぬ。酒だ! 飲もう! 浪之助殿、手を拍って女中をお呼び下され!」
「いや」と多四郎は手を振って止めた。
「酒も飲みましょう。がしかし、酒は場所を変えて飲みましょう」
「場所を変えて? はてどこへ?」
「拙者の屋敷で。……云うまでもござらぬ」
「要介のまかり在るこの屋敷、さてはお気に入らぬそうな」
「いやいや決して、そういう訳ではござらぬ。……が、最初にご貴殿において、お訪ね下されたのが拙者の屋敷、言って見れば先口で。……ではその方で飲むのが至当。……」
「ははあなるほど、それもそうじゃ」
「ということと存じましたれば、駕籠を釣らせてお宿の前まで、既に参って居りますので」
「それはそれはお手廻しのよいこと。……がしかし拙者といたしましては、ご貴殿のお屋敷におきましては、酒いただくより木刀をもって、剣道のご指南こそ望ましいのでござる」
「云うまでもござらぬ剣道の試合も、いたしますでござりましょう」
「その試合じゃが逸見先生、尋常の試合ではござらぬぞ」
「と申してまさかに真剣の……」
「なんのなんの真剣など。……実は賭試合がいたしたいので」
「ナニ賭試合? これは面妖! 市井の無頼の剣術使いどもが、生活《くらし》のために致すような、そのような下等の賭試合など……」
「賭る物が異《ちが》ってござる」
「なるほど。で、賭物は?」
「拙者においては赤尾の林蔵!」
「赤尾の林蔵を? 赤尾の林蔵を? ふうん!」と云ったが多四郎は、じっと要介の顔を見詰めた。


「博徒ながらも林蔵は、拙者の剣道の弟子でござる」
 要介はそう云って意味ありそうに、多四郎の顔を熟視した。
「その林蔵をお賭になる。……では拙者は何者を?」
 いささか不安そうに多四郎は云って、これも要介を意味ありそうに見詰めた。
「高萩村の猪之松を、お賭下さらば本望でござる」
「彼は拙者の剣道の弟子……」
「で、彼をお賭け下され」
「賭けて勝負をして?」
「拙者が勝てば赤尾の林蔵を、関東一の貸元になすべく、高萩村の猪之松を、林蔵に臣事いたさせ下され」
「拙者が勝たば赤尾の林蔵を、高萩の猪之松に従わせ、猪之松をして関東一の……」
「大貸元にさせましょう」
「ははあそのための賭試合?」
「弟子は可愛いものでござる」
「な
前へ 次へ
全35ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング