せねば……」
「さようか、よろしい、事実不在、――ということでござるなら、又参るより仕方ござらぬ。……なれどこのまま帰っては、三度も参った拙者の腹の虫、ちと納まりかねるにより、少し無礼とは存じ申すが、表にかけられた門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]、お預かりして持ちかえる。逸見殿江戸よりご帰宅なさらば、この旨しかとお伝え下され。宿の小紅屋に滞在まかりある。ご免」というと踵《きびす》を返し、門を出ると門の柱に「甲源一刀流指南」と書いた、二寸厚さの桧板、六尺長い門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]外し、小脇に抱えて歩き出した。
 呆れ返ったのは浪之助で、黙々として物も云わず、要介の後から従《つ》いて行った。
 村とはいっても小川村は、宿場以上の賑いを持った、珍らしく豊かな土地であって、道の両側には商店多く、人の往来も繁かった。そういう所を立派な武士が、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]引っ抱え、若い武士を供のように連れて、ノッシノッシと歩いて行くのであった。店の人達は審かしそうに覗き、往来の人達も不思議そうに眺めた。
 が、要介は意にも介さず、逸見家とは反対の方角の、これは小川村の入口にある、この村一番の旅籠屋の、小紅屋まで歩いて来た。
「お帰り」と番頭や婢達《おんなたち》が、これも怪訝そうな顔をして、大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]抱えた要介達を迎え、玄関へ頭を並べたのを、鷹揚に見て奥へ通った。


 中庭を前にした離座敷――この宿一番の座敷らしい――そこの床の間へ大門札を[#「大門札を」は底本では「大門礼を」]立てかけ、それを背にして寛《ゆるや》かに坐わり、婢の持って来た茶を喫しながら、要介は愉快そうに笑っていた。
 その前に浪之助はかしこまっていたが、これは随分不安そうであった。
「先生」ととうとう浪之助は云った。
「これは一体どうしたことで?」
「…………」
 愉快そうに笑っている。
「武芸指南所の門札は[#「門札は」は底本では「門礼は」]、商家の看板と等しなみに、その家にとりましては大切なもの、これを外されては大恥辱……」
「ということは存じて居るよ」
「はい」と浪之助はキョトンとし、
「それをご承知でその門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さよう、わしは外して来た」
「はい」と又もキョトンとし、
「それも高名の逸見先生の……」
「鳳凰と云われる逸見氏のな」
「はい」ともう一度キョトンとし、
「それほど逸見様は高名なお方……」
「わしも麒麟《きりん》と呼ばれて居るよ」
「御意で」と今度は頭を下げ、
「関東の麒麟と称されて居ります」
「鳳凰と麒麟……似合うではないか」
「まさにお似合いではございますが、似合うと申して門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「ナニわしだから外して来てもよろしい」
「麒麟だから鳳凰の門札を[#「門札を」は底本では「門礼を」]……」
「さようさよう外して来てもよろしい」
「ははあ左様でございますかな」
「他の奴ならよろしくない」
「…………」
「ということは存じて居る。さよう逸見氏も存じて居る」
「…………」
「人物は人物を見抜くからの」
「はい、もう私などは小人で」
「そのうちだんだん人物になる」
「はい、ありがたく存じます」
 とは云ったものの浪之助は、
(うっかり物を云うとこんな目に逢う。訓された上に嚇されてしまう)
 こう思わざるを得なかった。
「それに致しましても先生には、何と思われて小川村などへ参り、何と思われて逸見先生のお宅などへ……」
「武術試合をするためにさ……」
「それだけの目的でございますかな?」
「真の目的は他にある」
「どのような目的でございますかな?」
「赤尾の林蔵を関東一の貸元、そいつに押し立ててやりたいのだ」
「そのため逸見先生と試合をなさる?」
「その通り。変に思うかな?」
「どういう関係がございますやら」
「今に解る。じきに解る」
「ははあ左様でございますか」
「わしは金蔓をなくしてしまった――源女殿を見失ってしまったので、秩父にいる必要がなくなってしまった。そこで江戸へ帰ろうと思う。……江戸へ帰って行く置土産に、林蔵を立派な男にしてやりたい。それで逸見氏と試合をするのだ。……高萩の猪之松の剣道の師匠、逸見多四郎殿と試合をするのだ」


(なるほどな)と浪之助は思った。
(林蔵の師匠たる秋山先生と、猪之松の師匠たる逸見先生とが、武術の試合をした上で、林蔵を関東一の貸元にする。なるほどな、意味がありそうだ)
 確実のことは解らなかったが、意味はありそうに思われた。
 やがて解るということであった。押して訊こうとはしなかったが、
「それに致しましてもお組の源女と、その源女のうたう歌と、先生とのご関係を承《うけたま》わりたいもので」
 以前から疑問に思っていたことを、浪之助は熱心に訊いた。
 その浪之助は以前においては、まさしく源女の愛人であった。がその源女が今度逢ってみれば、変わった性格となって居り、不思議な病気を持って居り、妙な歌を口吟《くちずさ》むばかりか、要介などという人物が、保護する人間となっていたので、浮いた恋、稀薄の愛、そのようなものは注がないこととし、ほんの友人のように交際《つきあ》って来たところ、その源女は上尾街道で、過ぐる日行なわれた林蔵と猪之松との果し合いの際|行方《ゆくえ》不明となり、爾来姿を見せなくなっていた。
 浪之助も勿論心にかけたが、要介のかけ方は一層で、
「あの日たしかに大薮の陰で、源女殿の歌声を耳にした。が、果し合いを引き分けおいて、急いで行って探した時には、もう源女殿はいなかった。どこにどうしていることやら」と、今日までも云いつづけて来たことであった。
「源女殿とわしとの関係か。さようさな、もう話してもよかろう」
 要介はいつになくこだわら[#「こだわら」に傍点]なかった。しかししばらく沈思していた。久しく聞きたいと希望していた、秘密の話が聞かれるのである。浪之助は思わず居住いを正し、緊張せざるを得なかった。
 中庭に小広い泉水があり、鯉が幾尾か泳いでいたが、時々水面へ飛び上った。それが田舎の古い旅籠屋の、昼の静かさを破壊するところの、たった一つの音であった。
 と、要介は話し出した。
「武蔵という国は承知でもあろうが、源氏にとっては由縁《ゆかり》の深い土地だ。源氏の発祥地ともいうべき土地だ。ここから源氏の諸豪族が起こった。秩父庄司《ちちぶしょうじ》、畠山重忠《はたけやましげただ》、熊谷次郎直実《くまがいじろうなおざね》等、いずれも武蔵から蹶起した武将だ。……がわしにかかわる[#「かかわる」に傍点]事件は、もっと昔に遡らなければならない。……これは誰もが承知していることだが、後冷泉天皇の御宇《ぎょう》にあって、奥州の酋長|阿部《あべ》の頼時《よりとき》が、貞任《さだとう》、宗任《むねとう》の二子と共に、朝廷に背いて不逞を逞ましゅうした、それを征したのが源|頼義《よりよし》、そうしてその子の八幡太郎義家――さてこの二人だが奥州征めの往来に、武蔵の国にとどまった。今日の国分寺村の国分寺、さよう、その頃には立派な寺院で、堂塔伽藍聳えていたそうじゃが、その国分寺へとどまった……ところが止まったばかりでなく、前九年の役が終了した際、奥州産の莫大な黄金、それを携えて帰って来、それを国分寺の境内に、ひそかに埋めたということじゃ。それには深い訳がある」
 こう話して来て要介は、またしばらく沈思した。


 要介はポツポツ話し出した。
「源氏は東国を根拠とすべし。根拠とするには金が必要だ。これをもってここへ金を埋めて置く。この金を利用して根を張るべし。――といったような考えから、金を埋めたということだ。……その後この地武蔵において、いろいろさまざまの合戦が起こったが、埋めてあるその金を利用したものが、いつも勝ったということじゃ。ところがそのつど利用したものは、他の者に利用されまいとして、残った金を別の所へ、いつも埋め代えたということじゃ。……治承《じしょう》四年十月の候、源頼朝が府中の南、分倍河原《ぶばいがわら》に関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、元弘《げんこう》三年新田義貞卿が、北條高時を滅ぼすべく、鎌倉に兵を進めようとし、分倍河原に屯して、北條泰家と合戦したが、その時も義貞は源氏というところから、その金を利用したという事じゃ。正平《しょうへい》七年十二月十九日、新田|義宗《よしむね》南軍を率い、足利尊氏を狩野河《こうのかわ》に討つべく、武蔵の国に入ったところ、尊氏すでに狩野河を発し、谷口から府中に入り、人見原《ひとみはら》にて激戦したが、義宗破れて入間川《いるまがわ》に退き、二十八日|小手差原《こてさしはら》にて戦い、ふたたび破れて退いたが、この時は足利尊氏が、これも源氏というところから、その金を利用したということじゃ。更に下って足利時代に入り、鎌倉の公方足利成氏、管領上杉|憲忠《のりただ》を殺した。憲忠の家臣長尾|景晴《かげはる》、これを怒って手兵を率い、立川原で成氏と戦い、大いに成氏を破ったが、この時はその金を景晴が利用し、その後その金を用いた者で、史上有名の人物といえば、布衣《ふい》から起こって関八州を領した、彼の小田原《おだわら》の北條|早雲《そううん》、武蔵七党の随一と云われた、立川宗恒《たてかわむねつね》、同恒成、足利学校の創立者、武人《ぶじん》で学者の上杉|憲実《のりざね》。……ところがそれが時代が移って、豊臣氏となり当代となり――即ち徳川氏となってからは、その金を利用した誰もなく、金の埋没地も不明となり、わずかにこの地方秩父地方において『秩父の郡小川村、逸見様庭の桧の根、昔はあったということじゃ……』という、手毬唄に名残をとどめているばかりじゃ。……」
 ここまで云って来て要介は、不意に沈黙をしてしまった。
 じっと聞いていた浪之助の、緊張の度が加わった。
 源女のうたう不可解の歌が、金に関係あるということは、朧気ながらも感じていたが、そんな歴史上の合戦や人物に、深い関係があろうなどとは、夢にも想像しなかったからである。
(これは問題が大きいぞ)
 それだけに興味も加わって、固唾を呑むという心持! それでじっと待っていた。
 要介は語りついだ。
「あの歌の意味は簡単じゃ。今話した例の金が、武蔵秩父郡小川村の逸見《へんみ》家の庭にある桧の木の根元に、昔は埋めてあったそうさな。――という意味に他ならない。逸見家というのは云う迄もなく、逸見多四郎殿の家の事じゃ。……その逸見家は何者かというに、甲斐源氏《かいげんじ》の流を汲んだ、武州無双の名家で旧家、甲源一刀流の宗家だが、甲源の文字もそこから来ている。即ち甲斐源氏という意味なのじゃ」


 要介は語りつづけた。
「歌もそこ迄なら何でもないのじゃ。というのは普通の手毬歌として、秩父地方の人々は、昔から知っているのだからな。ところがどうだろう源女殿だけが、その後の文句を知っている『今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……それから少し間が切れて――秣の山や底無しの、川の中地の岩窟の……という文句を知っている。そこへわし[#「わし」に傍点]は眼をつけたのじゃ。頼義《よりよし》、義家が埋めたという金は、その後の歌にうたわれている境地に、今は埋めてあるのだろう。それにしても源女殿はどこでどうしてその後の歌を覚えたかとな。で源女殿へ訊いて見た。その返辞が洵《まこと》に妙じゃ。大森林や大渓谷や、大きな屋敷や大斜面や、そういう物のある山の奥の、たくさんの馬や馬飼のいる所へ、いつぞや妾《わたし》は行ったような気がする。そこでその歌を覚えたような気がする。でもハッキリとは覚えていない。勿論そこがどこであるかも知らない。――という曖昧の返辞なのだ。その上|其方《そち》も知っている通り、源女殿は時々発作を起こす。……で、わしはいろいろの医者へ、源女殿の様態
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