しょうか」
「そうさな、ひとつひっ叩いてみねえ」
 そこで藤作は戸を叩いた。
「へ――い、どなたでございますかな、今晩は都合で閉めましたんで。お馴染様であろうとご一現様であろうと、お断わりすることになってますんで」
 若衆《わかいしゅう》であろう潜戸の向こうで、こう素っ気なく挨拶をした。
「親分あれをお聞きですか、お馴染様であろうとご一現様であろうと、お断わりすると云っています」
「うむ、どうも仕方がねえな。ともかくももう一度俺の名を明かして、その若衆に掛合ってみな」
「へい、よろしゅうございます。……おいおい若衆、他でもねえが、赤尾の親分を知っているだろうな。お前のところのお山さんとは、切っても切れねえ仲だってこともよ。今年の暮ごろには受出してよ、黒板塀に見越の松、囲うってことも知ってなけりゃア嘘だ。その林蔵親分がな、ここにおいでなすっているのだ。ヤイこれでも戸をあけねえか」
「へい、さようでございましたか、赤尾のお貸元さんでございましたか。……野郎とうとう来やがったな」
「え、何だって、何て云ったんだい?」
「いいえ何にも云やアしません。……ええどうも困りましたな。いつもでしたら家中総出で、お迎えするんでございますが、何しろ今晩は馬大尽様が、そのお山さんを相方にして、しかも家を総仕舞いにして、誰もあげるなと有仰《おっしゃ》って……」
 その時林蔵が声をかけた。
「それじゃア何かいお山の客は、木曽の馬大尽|井上嘉門《いのうえかもん》様か?」
「へい、さようでございます」
「それじゃアどうも仕方がねえ。そうそうそう云えば井上大尽が、今日この土地へ来られたってこと人の噂で聞いたっけ。此方俺《こちとら》も随分ご厄介になった方だ。……いやそれなら結構だ。そういうお方に可愛がられたとあっては、かえってお山に箔がつく、いやそれなら結構だ。……杉さん、藤作、じゃア行こう。……笹屋へでも行って飲み明かそうぜ」
 三人は山城屋の門《かど》から離れ、五町ほど離れたこれも遊女屋の、笹屋というのへ乗り込んだ。
 三人|各自《めいめい》寝についた。
 夜中に林蔵は眼をさまし、用を達《た》すため部屋を出た。
 内緒の前まで来た時である、
「林蔵親分はお気の毒な……」という、笹屋の主人の声が聞こえた。
(はてな?)と林蔵は足を止めた。
「林蔵親分はお気の毒な、お山さんの心の変わったのも知らず、高萩の親分の来ているのを、馬大尽だと嘘を云われても、真に受けてこんな俺らの所へなんか、穏しくおいでなさるんだからなあ」


 答える内儀《おかみ》の声が聞こえた。
「お山という女の性悪には、妾《わたし》も驚いてしまいました。馬を牛に乗り換えるもいいが、日頃お二人さんの張合っているのを、百も二百も承知の上で、林蔵親分を袖にして、猪之松親分へ血道をあげ、狎《な》れつくとは性悪の骨張だよ」
 林蔵は内緒の前を離れ、用を達すと裏梯子から、自分の部屋へ返って来た。
 お山へ義理を立てるために、女を寝かしてはいなかった。
 布団の上に胡座《あぐら》を組み、黙然として考え込んだ。
(お山はどうせ宿場女郎、売物買物で仕方ねえが、高萩の猪之松は顔役だ。四百五百の乾児共から、立てられている男じゃアねえか。俺とお山との関係を、知らねえこともねえはずだ。それでいて俺の女を取る。まあまあそれも仕方ねえとして、井上大尽だと偽って、俺の遊びの邪魔をするとは、男の風上にも置けねえ奴。……そうでなくてさえ俺と彼奴《きゃつ》とは、早晩腕づくで争わなけりゃアならねえ。そういう立場に立っている。ヨーシそれではこの機会に……)
 折柄三番鶏の啼声がし、夜がそろそろ明けかけた。
(よし)と林蔵は立ち上り、身仕度をすると階下に下りた。
 寝ずの番の若衆が土間にいたが。
「これは親分、もうお帰りで」
「うん、わしは、これから帰るが、連れの二人はまだ寝ている、起こさずにそのままにして置いてくれ」
「へい、よろしゅうございます」
 潜戸から林蔵は外へ出た。
 暁の霧が立っていて、宿の家々は薄れてい、往来を歩く人影も少なく、家々の戸はとざされていた。林蔵は朝風に鬢を吹かせ、寝臭くなっている躰の汗を一度に肌から引き込ませ、足早に往来を歩いて行った。宿を出ると街道で、野良が四方に展《ひら》けてい、林や森や耕地があった。左へ行けば赤尾村、右へ行けば高萩村、双方へ行ける分岐点、そこに六地蔵が立っていて、木立がこんもり茂っていた。そこまで行くと立ち止まり、林蔵はしばらく考えたが、やがて木立の陰へ隠れた。
 次第に時が経って行く。
 やがて空が水色に色づき、それが次第に紅味《あかみ》ざし、小鳥が八方で啼き出した。
 と、その時上尾宿の方から、七人の人影が現われて、街道をこっちへ歩いて来た。
 高萩の猪之松の一行であった。
 三十
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