風通しのよい上等の客間へ、秋山要介を慇懃に通し、茶菓を備え歓待し、これほどの高名の人物によって、訪問されたことの喜びやら、恐縮やら、光栄やらを感謝しいしい、浪之助が謹ましく応対したのは、それから間もなくのことであった。
 貴殿と源女との以前の関係を、昨日源女より承《うけたま》わった。そうして昨日水品陣十郎が、どこやらのお長屋の庭において、誰やらと試合をしていたのを、貴殿御覧になられたと、そう源女に仰せられたそうな、そのお長屋がどこにあるか、それをお知らせにあずかりたく、拙者参上いたしたのでござると磊落な調子で要介は云った。
「陣十郎の現在の住居を、是非とも承知いたしたいので」
 こう要介は附け加えた。
「本郷の榊原式部少輔《さかきばらしきぶしょうゆう》様の、お長屋の一軒でございました」と、浪之助はあの時見た一部始終を話した。
「何人のお長屋でござりましたかな?」
「さあそれは、うっかり致しまして、確かめませんでござりましたが、よろしくば私ご案内いたし」
「忝《かたじ》けのう[#「忝《かたじ》けのう」は底本では「恭《かたじ》けのう」]ござる、では遠慮なく、夕景にでもなりましたら、散策かたがたご同行を願い……」
「かしこまりましてござります。……ところで……」と浪之助は言葉を改め、昨夜お茶の水の寂しい境地で、その水品陣十郎に逢い、一種の脅迫を受けたことを話した。
 じっと聞いていた要介は、次第にその眉をひそめたが、
「彼の兇悪まだ止まぬと見える。……まことに恐るべきは彼の悪剣……」と独言のように呟いた。
「先生、悪剣と申しますは?」と、浪之助は探るように訊いた。
 要介はしばらく沈黙したまま、泉水の鯉が時々刎ねて、水面へ姿を現わして、そのつど霧のような飛沫を上げ、岸に咲いている紫陽花《あじさい》の花が、その飛沫に濡れたのか、陽に艶めいて見えるさわやかな景へ、鋭い瞳を注いでいたが、
「柳生流の『車ノ返シ』甲源一刀流の『下手ノ切』この二法を並用したらしい、彼独特の剣技でござる」
 こう云って浪之助を正面から見詰めた。
 その眼をまぶしそうに外しながら、
「しかし先生などの腕前からすれば、陣十郎の腕前など……」
「なかなか以って、そうはいかぬ。……一年前に上州|間庭《まにわ》、樋口十郎左衛門殿の道場において、偶然彼と逢いましてな、懇望されて立合いましたが……」
「勝負は?」
「相打ち」
「…………」
「見事に足を。……」
「足を?」
「さよう。払われました」
「…………」
「拙者は面を取りましたが」
 浪之助は黙ってしまった。
 当代剣豪十人を選んで、日本の代表的人物としたら、当然その中に入るべき人物、秋山要介正勝ほどの人が、相打ちになったというからは、彼水品陣十郎という男、伎倆《うで》は伍格《ごかく》と見なければならない。
(そんなに出来る男なのかなア)
 嘘のように思われてならなかった。


 用意して置いた酒肴を出した。
「はじめて参ったのにこのご歓待、要介少なからず恐縮に存ずる」
 こう云いながらも遠慮せず、悠々と盃を重ねる態度が、明朗であり闊達であり、先輩も後輩も無視していて、真に磊落であり洒落であって、しかも本来が五百石取りの、先《まず》は大身の家柄の、御曹司である品位は落とさず、浪之助には慕わしくてならなかった。
「陣十郎のその悪剣、何と申す名称でござりますか?」
 浪之助はそう訊いて見た。
「逆の車と申しておりましたよ。勿論邪道の悪剣ゆえ、正当の名称はござらぬが、彼自身勝手に附けたものと見えます。……まずこう中段に太刀を構える」
 こう云いながら要介は、白扇を取るとグッと構えた。一尺足らずの獲物ながら、名人の構えた扇であった、浪之助にはその扇が、差しつけられた白刃より凄く、要介の躰《からだ》がそれの背後に、悉皆《すっかり》隠れたかのように思われた。
「と、こうグ――と左斜に、太刀を静かに引くのでござる」
 云い云い要介は扇を引いて見せた。
「さながら水の引くが如く。……云う迄もなく誘いの隙じゃ。……誘いの隙じゃと知りながらも、百人が百人それに乗り、一歩踏み出すか打ち込むかする。……と、その機先を素早く制し……柳生の業《わざ》車ノ返シ、そいつでこう一旦返す」
 扇をクルリと下返しに返した。
「ハッと相手が動揺した途端、間髪を入れず下手ノ切、甲源一刀流の下手ノ切……」
 こう云うと要介は左膝の辺りまで、扇を引き付けて八双に構え、すぐに刎ね返して掬い切りをした。
「こいつで来るのじゃ、さようこいつで。……下れば足、上れば胴、もう一段上れば顎へ来る……必ずやられる、必ず切られる」
「しかしそのように解って居りますれば、その術を破る方法が、いくらもあるように存ぜられますが」
「それが無い、こいつが業じゃ。……分解して云えば今のよ
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