に堪えかね、空地へ耕地へ……耕地へ耕地へと、さながら怒濤の崩れる如く、百、二百、三百、四百! 老幼男女家畜までが、この耕地へ逃げ出して来た。
 その人波に揉まれ揉まれて、澄江とお妻とが泳いで来た。
 と、陰惨とした幽鬼の声で、
「澄江殿オ――、お待ちなされ! ……汝お妻ア――遁そうや!」と叫ぶ、陣十郎の声がした。


 澄江もお妻も振り返って見た。
 愛欲の鬼、妄執の餓鬼、殺人鬼、――鬼となった陣十郎が人波を分けて、二人の方へ走って来た。
 血刀が群集の波の上に、火光《ひかり》を受けて輝いている。
(陣十郎に捕らえられたら、妾《わたし》の命は助からない)
 お妻は夢中で悲鳴を上げて走り、
(陣十郎殿に捕らえられたら、妾の躰も貞操も……)
 こう思って澄江も無我夢中で、前へ前へとヒタ走った。
「どうぞお助け下さりませ!」
 無我夢中で走って来た澄江、一挺の駕籠のあるのを見かけて、そこへ駈け付けこう叫んだ。
「お助けいたす! 駕籠の中へ!」
 誰とも知らず叫んだ者があった。
「お礼は後に、事情も後に!」
 こう云って澄江は駕籠の中へ、窮鳥のように身を忍ばせた。
「駕籠やれ!」と又も誰とも知れず叫んだ。
 駕籠がユラユラと宙に上り、街道の方へ舁がれて走り、その後から赧顔長髪の、酒顛童子[#「酒顛童子」は底本では「酒天童子」]さながらの人物が、ニタニタ笑いながら従《つ》いて走った。
 猪之松の屋敷で澄江の躰を、自分の物にしようとして、陣十郎に邪魔をされて、望みを遂げることに失敗した、馬大尽の井上嘉門であった。
「駕籠待て――ッ、遣らぬ! 待て待て待て――ッ!」
 陣十郎は追っかけたが、
「や、こいつ陣十郎! 又現われたか、今度こそ仕止めろ!」と、猪之松の乾児達一斉に、陣十郎を引っ包んだ。
 一方、お妻はその隙を狙い、ひた走りひた走ったが、息切れがして地に仆れた。
 と、そこに刀を下げて、寄せ来る群集に当惑し、左右に避けていた武士がいた。
「お侍さまと見申して、お助けお願いいたします!」
 云い云いお妻は武士の袖に縋った。
「誰じゃ? よし、誰でもよし! 見込まれて助けを乞われた以上、誰であろうと助けつかわす! 参れ!」と云ったがこの武士こそ、秋山要介と太刀を交わし、命の遣り取りをしようとした瞬間、群集の崩れに中をへだてられ、相手の姿を見失ったところの、逸見多四郎その人であった。
「東馬々々、東馬参れ!」
「はい先生! 私はここに!」
「源女殿は? 源女殿は?」
「源女殿は人波にさらわれて……どことも知れずどことも知れず……」
「残念! ……とはいえ止むを得ぬ儀、東馬参れ――ッ!」と刀を振り上げ、遮る群集に大音声!
「道を開け! 開かねば切るぞ!」
 刀の光に驚いて、道を開いた群集の間を、あて[#「あて」に傍点]もなく一方へ一方へ、三人は走った走った走った。
 が、それでも未練あって、
「源女殿オ――、源女殿オ――ッ」と呼ばわった。
 そういう声は聞きながら、永らく世話になってなつかしい、要介の姿を見かけた源女は――逸見多四郎に対しても、丁寧な待遇を受けたので、決して悪感は持っていなかったが、要介に対してはそれに輪をかけた、愛慕の情さえ持っていたので、その方角へ人を掻き分け、この時無二無三に走っていた。
「秋山先生!」とやっと[#「やっと」に傍点]近付き、地へひざまずくと足を抱いた。

10[#「10」は縦中横]
「源女殿か――ッ!」と秋山要介、これも地面へ思わず膝つき
「逢えた! よくぞ! 参られた! ……杉氏々々!」と嬉しさの声、顫わせて呼んで源女を抱き、
「もう逃がさぬ! どこへもやらぬ! 杉氏々々源女殿を、林蔵の手へ! ……そこで介抱!」
「おお源女殿オ――ッ! よくぞ来られた!」
 駈け寄って来た浪之助、これもなつかしさ[#「なつかしさ」に傍点]に声を亢《たか》ぶらせ、
「いざ源女殿、向こうへ向こうへ! ……先生にもご同道……」
「いやいや俺は逸見多四郎を! ……」
「この混乱、この騒動、見失いました上からは……」
「目つからぬかな。……では行こう」
 この混乱の人渦の中を、阿修羅のように荒れ廻っているのは、澄江を奪われお妻を見失い、猪之松の乾児達に取り巻かれ、切り立てられている陣十郎であった。
 十数人を殺傷し、己も幾度か薄手を受け、さすがの陣十郎も今は疲労! その極にあって眼はクラクラ、足元定まらずよろめくのを、得たりと猪之松の乾児の大勢、四方八方より切ってかかった。
 それをあしらい[#「あしらい」に傍点]、避けつ払いつ――こいつらに討たれては無念残念、どこへなりと一旦遁れようと退く、退く、今は退く!
 ようやく人波の渦より出、追い縋る猪之松の乾児からも遁れ、薮の裾の露じめった草野へ、跚蹣《さんまん》として辿りついた時
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