傍点]走り、ひた[#「ひた」に傍点]走った。

 偽善の巣窟であるところの、井上嘉門の領地内が、攪乱されたのはこの夜であった。
 乳飲児を抱いた若い女が、放蕩の良人《おっと》を探し出そうとして、深夜に領地内を彷徨《さまよ》っている。
 横を魔のように通る者があった。
「わ――ッ」と女は悲鳴をあげた。
 もう女は斃れていた。
 飼犬がどこかへ行ってしまった。それを目付けようと老いた農夫が、杖をつきながら通っていた。
「クロよ、クロよ、おいで、おいで」
 こう云いながら通っていた。
 その横をスルスルと通る者があった。
 一閃!
 刀光!
「わ、わ、わ、わ、わ――ッ」
 老農夫は斃れ動かなくなった。
 向こうでも切られこっちでも切られた。
 人々は戸外へ飛び出した。

賭場荒れ


 嘉門は決して人格者ではなく、又勝れた施政家でもなく、ただ家長という位置にあり、伝統的にその位置を利用し、圧制し専政し、威圧ばかりしていた人物であった。
 で、隷属していた人々は、永い間心に不平と不満を、ひそかに蔵していたのであった。そういう人々が侵入者によって、この境地が攪乱された、その機に乗じ爆発した。向こうに一団、こっちに一団、露路に一団、空地に一団、林の中に一組、森の中に一組、到る所に集まって、議論し撲り合いし取っ組み合いした。
 どうして、誰が、何のために、どういう騒動を起こしたのか、そういう真相を確かめようともせず、漠然とした恐怖、漠然とした憤怒、漠然とした焦燥に狩り立てられ、同派は組んで異端を襲い、同党は一致して異党を攻め、罵り、要求し、喧騒し合った。
「生地獄の人達を救い出せ!」
「ワ――ッ」と数十人が鬨の声をあげて、山の手の方へ押して行った。
「嘉門様にこの地から出て貰おう!」
「ワ――ッ」と数十人が屋敷を目掛け、無二無三に走って行った。
「人使いが荒すぎる」
「役にも立たないお客さんなどを、泊めて置くのが間違っている!」
「客人たちを追っ払え!」
「ワ――ッ」と大勢が一つに集まり、その客人の泊まっている家々へ、押し寄せて行って騒ぎ立てた。
 悲鳴! 呻き声! 泣き声! 怒声!
 客人達も狼狽して、家々を出て群集にまじった。
 秋山要介も浪之助も、源女も主水もその中にいた。
 嘉門も狼狽し恐怖したらしい。
 玄関に立って途方にくれていた。
 そこへ多四郎が現われた。
「逸
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