やった。……しばらくじっと[#「じっと」に傍点]しているがいい」
 ――で、立ったままじっと[#「じっと」に傍点]していた。
 間もなく麓の方へ走り下る、人の足音が聞こえてきた。
「ははあもう一人も逃げて行ったな」
「先生何です、逃げて行ったとは?」
「一人が一人を殺そうとしていたのだ。……それをわしが挫いてやったのだ。……殺そうとした奴が先に逃げ、殺されかけていた人間が、つづいて今逃げて行ったのさ」
「こんな暗中でそんなことが、先生におわかりになりますので?」
「活眼活耳さえ持って居れば、暗中であろうと、睡眠中であろうと、そういうことはわかるものだ」

 主水は夢中で走っていた。
 恐怖と不安と一種の怒りとで、彼の心はうわずって[#「うわずって」に傍点]いた。
 彼にもう一段沈着があって、自分の危難を救ってくれたところの、恐ろしい掛声の主を尋ね、逢うことが出来たら自分と縁ある、侠剣の主人《あるじ》秋山要介と邂逅することが出来たのに!


 が、しかし主水にとっては、そんな余裕はなかったのであった。
(陣十郎め、心が変わった。たしかに悪人に還元した。俺を殺そうとしたらしい。でなかったらあの呼吸――あの殺伐の気は出ぬはずじゃ! ……それにしてもカ――ッと鋭い気合が、あの時かかって俺の命を、瞬間の間に救ってくれたが、一体誰が掛けたのであろう?)
 走りながらもそう思った。
(どっちみち俺は陣十郎とは、もう一緒には住みがたい。……では馬大尽井上嘉門の、賓客部屋へも帰れない。……どうしたらよかろう? どうしたらよかろう?)
 ひた[#「ひた」に傍点]走りながらそう思った。
(カ――ッと掛かったあの気合! ……尋常の人間の掛けた気合と、全然別の恐ろしい気合だ! ……俺は命が縮まるかと思った)
 こう思いながら無二無三に、麓をさして陣十郎も、走り走り走っていた。
(が俺は「逆ノ車」を、これで再度やり損なった訳だ! 再度の失敗! 再度の失敗! ……う――む再度の「逆ノ車」の失敗!)
 これは洵《まこと》に彼にとっては、致命的の打撃と云わざるを得なく、そうして、事実彼にとって、再度の致命的の打撃なのであった。こうなってはヤブレカブレ、どいつであろうと誰であろうと、かもう[#「かもう」に傍点]ものか切って切って、……この鬱忿を晴らしてやろう)[#「)」はママ]
 ひた[#「ひた」に
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