澄江は地上へ振り落とされた。
 馬と前後して谷の斜面を、底へ向かって転落した。
 何と奇怪にも谷の斜面が、柔らかくて滑らかで、ほとんど土とは思われないではないか!
 こうして澄江は微傷《びしょう》さえ負わず、谷の底へ落ちついた。
 と、眼の前を落ちて来る馬の、気の毒な姿が通って行ったが、底へ着くと立ち上り、立ち上ったが恐怖のためであろう、高い嘶をあげながら、前方へ向かって走りつづけた。
 月光をうけて銀箔のように輝いて見える川があった。
 そう、前方に川があった。
 と、その川まで駈けて行った。
 馬は川へ飛び込んだ。(泳ぐかな?)
 と澄江は思った。
 浅いと見えて五歩十歩、二十歩あまり歩いて行った。
 と、どうだろう歩くに従い、馬は次第に小さくなって行った。
 そうしてやがて歩かなくなった。
 身長《せい》が大変低くなって見えた。
 と、馬は首を長く延ばし、悲劇を無言で眺めている月に向かって顔を向けたが、悲しそうに幾度か嘶いた。
 だんだん身長が低くなって行く。
 やがてとうとう馬の姿が川の面から消えてしまい、漣《さざなみ》も立てずにどんより[#「どんより」に傍点]と、流れるともなく流れている、そういう水面《みずも》には月光ばかりが銀の延板のそれかのように、平らに輝いているばかりであった。
 川巾は随分広かった。
 そうして対岸には屏風のような、切り立った高い断崖が、険しく長く立っていた。
 澄江はゾッと悪寒を感じた。
(どうして馬は沈んだろう?)
 もしその川が深かったら、馬は泳いで行くはずである。
 もしその川が浅かったら、馬は歩いて渡るはずである。
 それだのに沈んでしまった。
(おお川は底無しなのだ!)
 そう、それに相違ない。
 水そのものは浅いのであるが、底は泥の堆積で、幾丈となく深いのだ。で、そこへ踏み入ったものは、その泥に吸い込まれ、永久沈んでしまうのだ。
 ゾッと澄江は悪寒を感じた。
(川を越しては逃れられない)
 澄江はフラフラと立ち上った。
 それから自分が転がり落ちて来た、山の斜面を振り仰いで見た。
 斜面は洵《まこと》になだらかで、一本の木立も、一つの丘も、一つの岩も、何もなかった。
 下口《おりくち》までは高く遠く、容易に達しがたく思われたが、上るには難なく思われた。
 澄江は斜面を上り出した。
 すぐツルリと足が辷《すべ》り、たちま
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