いうところの大家族主義の典型《てんけい》のようなものであった。
 西野郷の井上嘉門と、こう一概に人は云っていたが、行って見れば井上嘉門の屋敷は、西野郷からは更に数里、飛騨の国に寄っている、ほとんど別個の土地にあり、その土地から西野郷へまで、領地が延びているのだと、こう云った方がよいのであった。
 山の大名!
 まさにそうだ。
 周囲三里はあるであろうか、そういう広大な地域を巡って、石垣と土牆《どしょう》と巨木とで、自然の城壁をなしている(さよう将に城壁なのである)その中に無数の家々があり田畑があり丘があり、林があり、森があり、川があり、沼があり、農家もあれば杣夫の家もあり、空地では香具師《やし》が天幕《テント》[#ルビの「テント」は底本では「テン」]を張って見世物を興行してさえいた。
 しかもそれでいてその一廓は、厳然として嘉門の屋敷なのであった。
 つまり嘉門の屋敷であると共に、そこは一つの村であり、城廓都市であるとも云えた。
 馬や鹿や兎や狐や、牛や猿などが、林や森や、丘や野原に住んでいた。
 到る所に厩舎《うまや》があった。
 乞食までが住居していた。
 嘉門の住んでいる主屋なるものは、一体どこにあるのだろう?
 ほとんど見当がつかない程であった。
 が、その屋敷はこの一劃の奥、北詰の地点にあるのであって、その屋敷にはその屋敷に属する、石垣があり門があった。
 要介に杣夫が話した話、「ご門をお入りになってから、主屋の玄関へ行きつくまでに、十町はあるということで」と。
 これはこの門からのことなのであった。
 が、総体の嘉門の屋敷、周囲三里あるというこの屋敷の、雄大極まる構えと組織は、何も珍しいことではなく、昭和十七年の今日にあっても、飛騨の奥地や信州の奥地の、ある地方へ行って見れば、相当数多くあるのである。新家《しんや》とか分家《ぶんけ》とかそういう家を、一つ所へ八九軒建て、それだけで一郷を作り、その家々だけで団結し、共同の収穫所《とりいれしょ》や風呂などを作り、祭葬冠婚の場合には、その中での宗家へ集まり、酒を飲み飯を食う。
 白川郷など今もそうである。
 で、嘉門家もそれなのであるが、いかにも結構が雄大なので、驚かされるばかりなのであった。
 宗家の当主嘉門を頭に、その分家、その新家、分家の分家、新家の新家、その分家、その新家――即ち近親と遠縁と、そうし
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