渡、等々の小部落を点綴《てんてつ》したところの、一大地域の総称であって、その中には大森林や大渓谷や瀧や沼があり、そのずっと奥地に井上嘉門の、城砦のような大屋敷が、厳然として建っているのであった。
 今日の歩みをもってすれば、福島から西野郷へは一日で行けるが、文政年間の時代においては、二日の日数を要するのであった。
 分け上る道は険しかったが、名に負う木曽の奥地の秋、その美しさは類少なく、木々は紅葉し草は黄ばみ、木の実は赤らみ小鳥は啼きしきり、空は澄み切って碧玉を思わせ、驚嘆に足るものがあり、そういう境地を放牧されている馬が、あるいは五頭あるいは十頭、群をなし人を見ると懐かしがって、走って来ては鼻面を擦りつけた。
「妾《わたし》、だんだん思い出します」
 源女は嬉しそうに云い出した。
「たしかに妾こういう所を、山駕籠に乗せられ揺られながら、以前に通ったように思います」
「そうでござるか、それは何より……源女殿には昔の記憶を、だんだん恢復なされると見える」
 そう云って要介も喜んだ。
 歩きにくい道を歩きながら、三人は奥へ進んで行った。
 その日も暮れて夜となった。
 その頃要介の一行は、一軒の杣夫《そま》の家に泊まっていた。
 このような土地には旅籠屋などはなく、旅する人は杣夫や農夫に頼み、その家へ泊まることになっていた。
 大きな囲炉裏を囲みながら、要介は杣夫の家族と話した。
「西野郷の馬大尽、井上嘉門殿のお屋敷は、大したものでござろうの?」
「へえ、そりゃア大したもので、ご門をお入りになってから、主屋の玄関へ行きつくまでに、十町はあるということで」
「それはどうも大したものだな」
「嘉門様お屋敷へ参られますので?」
「さよう、明日《あした》行くつもりじゃ」
「あそこではお客様を喜ばれましてな、十日でも二十日でも置いてくれます」


「大家のことだからそうであろう」
「幾日おいでになろうとも、ご主人のお顔を一度も見ない、……見ないままで帰ってしまう……そういうことなどザラにあるそうで」
「ほほう大したものだのう」
 翌日一行は杣夫の家を立ち、その日の夜には要介達は、井上嘉門家の客になっていた。
 客を入れるために造ってある、幾軒かある別棟の家の、その一軒に客となっていた。
 想像以上噂以上に、嘉門の屋敷が豪壮であり、その生活が雄大なので、さすがの要介も胆を潰した。
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