らしい。
 が、その陣十郎はどうしたものか、詳しく話そうとはしないので、強いて訊くことも出来なかった。
 とはいえ澄江がそんな事情で、嘉門に連れられて行ったとすれば、急いで木曽へ出張って行って、澄江を奪い返さなければならない。
 ――で、旅立って来たのである。
 二人は翌日山形屋を立って、旅駕籠に身を乗せて、福島さして歩ませた。
 鳥居峠へ差しかかった。
 ここは有名な古戦場で、かつ風景絶佳の地で、芭蕉翁なども句に詠んでいる。
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雲雀《ひばり》より上に休らう峠かな
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 木曽の五木と称されている、杜松《ねず》や扁柏《ひのき》や金松《かさやまき》[#ルビの「かさやまき」はママ]や、花柏《さわら》や、そうして羅漢松《おすとのろう》[#ルビの「おすとのろう」はママ]などが、鬱々蒼々と繁ってい、昼なお暗いところもあれば、カラッと開けて急に眼の下へ、耕地が見えるというような、そういう明るいところもあった。
 随分急の上りなので、雲助はしきりに汗を拭いた。
 主水は陣十郎の容態を案じた。
(窮屈の駕籠でこんな所を越して、にわかに悪くならなければよいが)
 で、時々駕籠を止めて、客をも駕籠舁《かごかき》をも休ませた。
 峠の中腹へ来た時である、
「駕籠屋ちょっと駕籠をとめろ」
 突然陣十郎はそう云った。
「おい主水、景色を見ようぜ」
「よかろう」と主水も駕籠から下りた。
「歩けるのか、陣十郎」
「大丈夫だ。ボツボツ歩ける」
 陣十郎は先に立って、森の方へ歩いて行った。


 明応《めいおう》年間に木曽義元、小笠原氏と戦って、戦い勝利を得たるをもって、華表《とりい》を建てて鳥居峠と呼ぶ。
 その鳥居の立っている森。――森の中は薄暗く、ところどころに日漏れがして、草に斑紋《まだら》を作ってはいたが、夕暮のように薄暗かった。
 そこを二人は歩いて行った。
 紅葉した楓《かえで》が漆《うるし》の木と共に、杉の木の間に火のように燃え、眩惑的に美しかったが、その前までやって来た時、
「エ――イ――ッ」と裂帛の声がかかり、木漏れ陽を割って白刃一閃!
「あッ」
 主水だ!
 叫声を上げ、あやうく飛び退き抜き合わせた!
 悪人の本性に返ったらしい! 見よ、陣十郎は負傷の身ながら、刀を大上段に振り冠り、繃帯の足を前後に踏み開き、大眼カッと見開いて、上瞼へ
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