居ないのがかえって天の与え、今日の彼の様子から推せば、今後どんな目に逢わされるかも知れない。
(宿を出てともかくも外へ行こう)
仕度をして外へ出た。
(主水様は?)
こんな場合にも思った。
4
昼間見かけた例のお侍さんが、もし恋しい主水様なら、この宿のどこかに泊まっていよう、お逢いしたいものだお逢いしたいものだ!
思い詰めて歩く彼女の姿も、いつか混乱に捲かれてしまった。
岩屋で眼覚めた主水その人も、ほとんど澄江と同じであった。
傍らを見るとお妻が居ない。天の与えと喜んだ。義理あればこそ今日まで、一緒に起居をして来たのではあるが、希望《のぞみ》は別れることにあった。
そのお妻の姿が見えない。
(よしこの隙に立ち去ろう)
で、身仕度して外へ出た。
(鍵屋の二階で見かけた女、義妹澄江であろうも知れない。ともかくも行って探して見よう)
で、その方へ歩を運んだが、人と馬と火との混乱! その混乱に包まれて、全く姿が見えなくなった。
喚声、悲鳴、馬のいななき!
破壊する音、逃げまどう足音?
唸る嵐に渦巻き渦巻き、火の子を散らす火事の焔!
宿は人の波、馬の流れ、水の洗礼、死の饗宴、声と音との、交響楽!
その間を縫って全くの狂乱――血を見て狂った悪鬼の本性、陣十郎が走っては切り、切っては走り、隠見出没、宿の八方を荒れ廻っていた。
今はお妻を探し出して切る! ――そういう境地からは抜け出していて、自分のために追分の宿が、恐怖の巷に落ち入っている、それが変質的彼の悪魔性を、恍惚感に導いていた。で男を切り女を切り馬を切り子供を切り、切れば切るほど宿が恐怖し、宿が混乱するその事が、面白くて面白くてならないのであった。
返り血を浴び顔も手足も、紅斑々《こうはんはん》[#「紅斑々」は底本では「紅班々」]として凄まじく、髻《もとどり》千切れて髪はザンバラ、そういう陣十郎が老人の一人を、群集の中で切り仆し、悲鳴を聞き捨て突き進み、向こうから群集を掻き分け掻き分け、こっちへ向かって来る若い女を見た。
「澄江エ――ッ」と思わず声をあげた。
それが澄江であるからであった。
「陣十様[#「陣十様」はママ]か!」と澄江は云ったが、あまりにも恐ろしい陣十郎の姿! それに自身陣十郎から遁れ、立ち去ろうとしている時だったので、陣十郎の横を反れ、群集の中へまぎれ込もうとした。
「汝
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