陣十郎だ!」
 閂峰吉が眼ざとく[#「ざとく」に傍点]目付け、ギョッとしたように声をあげた。
「おおそうだ陣十郎だ!」
 こう猪之松も叫んだが、いつぞやの晩自分の屋敷で、養ってやった恩を忘れ、乾児を切ったばかりでなく、井上嘉門に捧げた女――澄江とか云った武家の娘を、奪い去ったことを思い出した。
「畜生、恩知らず、たたんでしまえ!」
「やれ!」
 ダ、ダ、ダ、ダ! ――
 乾児達だ!
 一斉にひっこ[#「ひっこ」に傍点]抜いて切ってかかった。
「…………」
 無言で横なぐり!
 陣十郎であった!
 ブ――ッと血吹雪《ちふぶき》!
 闇ながら立った。
 匂いで知れる! 生臭さ!
「切ったぞ畜生!」
「用心しろ!」
 開いて散じたが又合した。
 見境いのない陣十郎、躍り上ってズ――ンと真っ向!
「キャ――ッ」
 仆れて、ノタウチ廻る。また乾児が一人やられた。
 見すてて一散宿の方へ!
「汝《おのれ》お妻ア――ッ! 逃がしてなろうか!」
「追え!」と猪之松は地団太を踏んだ。
「仕止めろ、汝ら、仕止めろ仕止めろ!」
 一同ド――ッと追っかけた。
 この頃|宿《しゅく》は狂乱していた。
 馬! 馬! 馬!
 博労! 博労! 博労!
 戸を蹴破り、露路に駈け込み、騒ぎに驚いて戸を開けた隙から、駈け入る馬! 捕らえようとして、無二無三に踏み入る博労!
 ボ――ッと一軒から火の手が揚がった。
 火事だ!
 とうとう火を出したのだ!
 おりから吹きつのった夜風に煽られ、飛火したらしいもう一軒から、カ――ッと火の手が空へあがった。
「起きろ!」
「火事だ!」
「焼き討ちだ!」
 家々はおおよそ雨戸を開け、人々は争って外へ出た。
 岩屋では主水が眼を覚まし、鍵屋では澄江が起き上った。
 番頭が階上階下《うえした》を怒鳴り廻っている。
「お客様方大変でございます。焼き討ちがはじまりましてござります! どうぞお仕度下さりませ! ご用心なすって下さりませ!」

 本陣油屋の奥の座敷では、逸見《へんみ》多四郎義利が、眼をさまして起き上った。


 多四郎は聞き耳を澄ましたが、
「源女殿! 東馬々々!」と呼んだ。
 と、左の隣部屋から、
「はい」という源女の声が聞こえ、
「眼覚め居りますでござります」という、門弟東馬の応える声が、右の隣部屋から聞こえてきた。
「宿《しゅく》に騒動が起こったようじ
前へ 次へ
全172ページ中109ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング