った、旅籠を抜け出して道を歩き、鍵屋などへは行けなかった。
 行けたにしても時が経ち、用達しの時間よりも遅れたならば、そうでなくてさえ常始終から、逃げはしないかと警戒しているお妻が、不安に思って探しに来、居ないと知ったら騒ぎ立て、一悶着起こそうもしれない。そうなっては大変である。
 そこで主水は厠へ入り、やがて出て来て部屋へ帰り、穏しく又夜具の中へ入った。
 見ればお妻は同じ姿勢で、安らかに眠っているようであった。
 やはり主水には澄江のことが、どうにも気になってならなかった。
(よし、もう一度試みてみよう)
 で、お妻の方へ眼をやったまま、又ソヨリと夜具から出た。
 お妻はやはり眠っていた。
 衣裳や両刀の置いてある方へ行った。
 幸いにお妻は眼をさまさなかった。
(有難い)と心で呟き、手早く衣裳を着換えようとした時、
「主水様どちらへ?」とお妻が云った。
 眼をさましていたのであった。
 怒ったような、嘲るような、――妾を出し抜いて行こうとなされても、出し抜かれるものではござんせん――こう云ってでもいるような眼付で、お妻は主水をじっと見詰めた。
「いや……ナニ、ちょっと……それにしても寒い――信州の秋の夜の寒いことは……そこで重ね着しようとして……」
 もずもず[#「もずもず」に傍点]と口の中で云いながら、テレて、失望して、断念して、主水は又も夜具の中へ入った。
(もう不可《いけ》ない、諦めよう)
 主水はすっかり断念した。
 眼端の利くお妻が眠った様子をして、こう自分を監視している以上、こっそり抜け出して行くことなど、とうてい出来ないと思ったからであった。
(よしよし明日の朝早く起き、そぞろ歩きにかこつけて、鍵屋へ行って見ることにしよう)
 こう考えをつけてしまうと、一時に眠りが襲って来た。
 主水は間もなく深い眠りに落ちた。
 あべこべにお妻は眼をさましてしまい、腹這いになって考え込んだ。
 好きで寝る間も枕元に置く莨《たばこ》、その煙管《きせる》を口にくわえ、ほの明るい行燈《あんどん》の光の中へ、漂って行く煙の行方を、上眼を使って見送りながら、お妻は考えに沈み込んだ。
 これ迄は観念をしたかのように、決して自分を出し抜いて、逃げようなどとしたことのない主水が、今夜に限って何としたことか、二度まで抜けて出ようとした! これはどうしたことだろう?
 どうにも合
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