点がいかないのであった。
(何か曰くがなけりゃアならない)
 それにしても自分というこの女が、女賊、枕探し、邯鄲師《かんたんし》、だから他人の寝息をうかがい、抜け出ることも物を盗むことも、殺すことさえ出来るのに、知らぬとはいえそういう自分を出し抜き、抜け出ようとした主水の態度が、どうにも可笑《おか》しくてならなかった。
(いっそ可愛い位だよ)
 煙管をくわえたままお妻は笑い、主水の方をそっと見遣った。主水は安らかに天井の方を向いて、規則正しい呼吸をしていた。深い眠りに入っているらしい。
 もう時刻は丑の刻でもあろうか、家の内外寂しく静かで、二間ほど離れた座敷の方から、鼾の声が聞こえてき、初秋の夜風に吹かれて落ちる、中庭あたりの桐の葉でもあろうか、バサリ、バサリと閑寂の音を、時々立てるのが耳につくばかりで、山国の駅路《えきろ》の旅籠の深夜は、芭翁《ばしょう》好みの寂寥に入っていた。
(今日まで我慢をして来たんだよ。……やっぱり順当の手段《て》で行こうよ)
 お妻はとうとう思い返した。
 で、煙管を抛り出し、男の方へ顔を向け、横に寝返って眠ろうとした。
 途端に、
「澄江!」と眠ったままで、主水がハッキリ声を立てて云った。
「澄江よ! 澄江よ! お前はどこに! ……」
 お妻はグラグラと眼が廻った。
(畜生!)
 ムックリと起き上った。
(やっぱり思っていやがるんだ! あの女のことを! 澄江のことを!)
 眼を据えて主水の寝顔を睨んだ。
 主水は長閑《のどか》に眠っている。
 が、愛する女のことを、夢にでも見ているのであろうか、閉じた眼を優しく痙攣させ、閉じた唇に微笑を湛えている。


 それからしばらく経った時、追分の宿の宿外れを、野の方へ行く女があった。
 星はあるが月のない夜で、それに嵐さえ吹いていて、その嵐に雲が乱れ、星をさえ隠す暗澹さ!
 そういう夜道を物に狂ったかのように、何か口の中で呟きながら、走ったかと思うと立ち止まり、立ち止まったかと思うと又走る。
 それは他ならぬお妻であった。
 眠っている間も恋しい女、澄江のことを忘れかね、うわ言に出して云った主水――そういう主水の心持を知り、怒りと失望と嫉望《しっと》とに、お妻はほとんど狂わんばかりとなり、汝《おのれ》どうしてくれようかと、殺伐の気さえ起こしたのであったが、それは年増であり世間知りであり、世なれ
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