」と澄江は編笠の中から、これも優しい声で答えた。

心々の旅の人々


「お疲労でござらば駕籠雇いましょう」
 陣十郎も編笠の中から、念を押すようにもう一度云った。いかにも優しい声であった。
「何の遠慮などいたしましょう、疲労ましたら妾の方から、駕籠なと馬なとお雇い下されと、押してお頼みいたします……どうやらそう仰言《おっしゃ》る貴郎様こそ、お疲労のご様子でございますのね。ご遠慮なく馬になと駕籠になと、ホ、ホ、ホ、お召しなさりませ」
 からかう[#「からかう」に傍点]ように澄江は云った。
「ア、ハ、ハ、とんでもない話で、拙者と来ては十里二十里、韋駄天のように走りましたところでビクともする足ではござりませぬ。……貴女は女無理して歩いて、さて旅籠《はたご》へ着いてから、ソレ按摩じゃ、ヤレ灸《やいと》じゃと、泣顔をして騒がれても、拙者決して取り合いませぬぞ」
「貴郎様こそ旅籠に着かれてから、くるぶし[#「くるぶし」に傍点]が痛めるの肩が凝るのと、苦情めいたこと仰せられましても、妾取り合わぬでござりましょうよ。ホ、ホ、ホ」と朗かに笑った。
 陣十郎も朗かに笑った。
 これは何たることであろう! 敵同志であるこの二人が、こう親しくこう朗かで、浮々と旅をつづけて行くとは?
 それには深い事情があった。
 澄江はあの夜猪之松の屋敷で、すんでに井上嘉門によって、操を穢されるところであった。それを陣十郎が身を挺し、養われかくまわれ[#「かくまわれ」に傍点]た恩をも不顧《かえりみず》、猪之松の乾児《こぶん》を幾人となく切り捨て、自分を助けて遠く走り、農家に隠匿《かくま》い今日まで、安穏に生活《くらし》をさせてくれた。その間一度も陣十郎は、自分に対していやらしい言葉や、いやらしい所業《しわざ》に及ばなかった。勿論陣十郎は義父《ちち》の敵《かたき》、討って取らねばならぬ男、とはいえ義父を討ったのも、その一半は自分に対し、恋慕したのを自分が退け、義父や主水が退けたことに、原因があることではあり、性来悪人ではあろうけれど、従来一度も自分に対しては、悪事を働いたことはなかった。その上今は女の生命の、操を保護してくれた人――とあって見ればこの身の操は、云うまでもなく許婚《いいなずけ》の、主水一人に捧げる外、誰にも他の男へは、捧げてはならず自分としても、断じて捧げぬ決心であり、このことばかりは陣十
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