て、黒くひっそりと立っていた。屋根の瓦が水のように、薄白く淡く光っているのは、空に遅い月があるからであった。
 その建物を巡りながら、幾人かの人影が動いていた。
 寝所へ入った馬大尽嘉門に、もしものことがあったら大変――というので猪之松の乾児達が、それとなく警護しているのであった。
 池では家鴨《あひる》が時々羽搏き、植込の葉影で寝とぼけた夜鳥が、びっくりしたように時々啼いた。
 が、静かでしん[#「しん」に傍点]としていた。
 主屋でも客はおおよそ帰り、居残った人々も酔仆れたまま、眠ったかして静かであった。
 離座敷の内部《うち》の一室《ひとま》。――そこには屏風が立て廻してあった。
 一基の燭台が置いてあり、燈心を引いて細めた燈火《ひかり》が、部屋を朦朧と照らしていた。
 屏風の内側には箱から出された生贄の女澄江の姿が、掛布団を抜いて首から上ばかりを、その燈火の光に照し出していた。
 そうしてそれの傍には、嘉門が坐っているのであった。
 澄江の心はどうであろう?
 義兄《あに》であり恋人であり許婚《いいなずけ》である、主水とゆくゆくは婚礼し、身も心も捧げなければならぬ身! それまでは穢さず清浄に、保たねばならぬ処女の体! それを山国の木曽あたりの、大尽とはいえ馬飼の長、嘉門如きに、嘉門如きに!
 処女を失ってはもう最後、主水と顔は合わされない。永久夫婦になどなれないであろう。
 復讐という快挙なども、その瞬間に飛んで消えよう。
 澄江の気持はどんなであろう?
 時が刻々に経ってゆく。
 と、不意に屏風の上から、白刃がヌッと差し出された。
 嘉門はギョッとはしたものの、大胆に眼を上げて上を見た。
 屏風の上に覆面をした顔が、じっとこちらを睨んで居た。
「曲者!」
 ガラガラ!
 屏風が仆された。


 枕刀の置いてある、床の間の方へ走って行く嘉門の姿へは眼もくれず、着流しの衣裳の裾をからげ、脛をあらわし襷がけして、腕をまくり上げた覆面武士は、やにわに澄江を小脇に抱えた。
「曲者でござるぞ、お身内衆! 出合え!」と喚き切り込んだ嘉門!
 その刀を無造作に叩き落とし、
「うふ」
 どうやら笑ったらしかったが、
 ビシリ!
 もう一揮! 振った白刃!
「ワッ」
 へたばった[#「へたばった」に傍点]は峯打ちながら、凄い手並の覆面に、急所の頸を打たれたからで、嘉門はのめ
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