出さねえ。何を持って来るつもりかしら」
こう云ったのは源七であった。
「上尾街道の一件以来、あいつ親分に不首尾だものだから、気を腐らせて生地なかったが、そいつを挽回しようてんで、何か彼かたくらんで[#「たくらんで」に傍点]はいるらしい」
こう云ったのは権太郎であった。
「あいつが一番の兄貴だったんだから、たとえ親分が何と云おうと――手出しするなと云ったところで、そんなことには頓着なく、林蔵の野郎を背後の方から、バッサリ一太刀あびせかけ、あの時息の音止めてしまったら、とんだ手柄になったものを、主水とかいう侍の妹とかいう女を、馬方なんかと一緒になって、どこかへ担いで行ったということだが、頓馬の遣口ってありゃアしねえ」
苦々しく閂峰吉が云った。
がその時玄関の方で、五六人の声で景気よく、
「献上々々、献上でえ!」と囃し喚く声が聞こえてきたので、一同《みんな》は黙って聞耳を立てた。
この囃し声を耳にしたのは、お勝手元の乾児ばかりでなく、奥の座敷で酒宴をしている、馬大尽歓迎の人々もひとしく耳を引っ立てた。
5
五十畳敷の広さを持った座敷に、無数の燭台が燈し連らねてあり、隅々に立ててある金屏風に、その燈火《ひ》が映り栄えて輝いている様は、きらびやかで美しく、そういう座敷の正面に、嵯峨野を描いた極彩色の、土佐の双幅のかけてある床の間、それを背にして年は六十、半白の髪を切下げにし、肩の辺りで渦巻かせた、巨大な人間が坐っていたが、馬大尽事井上嘉門であった。日焼けて赧い顔色が、酒のために色を増し、熟柿《じゅくし》を想わせる迄になって居り、そういう顔にある道具といえば、ペロリと下った太い眉、これもペロリと下ってはいるが、そうしてドロンと濁ってはいるが、油断なく四方へ視線を配る、二重眼瞼の大きい眼、太くて偏平で段のある鼻、厚くて大きくて紫色をしていて、閉ざしても左の犬歯だけを、覗かせている髭なしの唇に、ぼったりと二重にくくれている顎、その顎にまでも届きそうな、厚い大きな下った耳であった。身長《せい》も人並より勝れていたが、肥満の方は一層で、二十四五貫もありそうであり、黒羽二重の紋付に、仙台平の袴をつけ、風采は尋常で平凡であったが腹の辺りが太鼓のように膨れ、ムッと前方に差し出されているので、格好がつかず奇形に見えた。曲※[#「碌のつくり」、第3水準1−84−27]《きょくろく》
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