追われて後へ退く多四郎!
 ドドドドッという二人の足音!
 見よ、その速さ、その鋭さ!
 あッ、多四郎は道場の端、板壁へまで追い詰められ、背中を板壁へあてたまま、もう退けない立ち縮んだ。
 その正面へ宛然《さながら》巨岩、立ちふさがったは要介であった。
 勝負あった!
 勝ちは要介!
 非ず、見よ、次の瞬間、多四郎の胸大きく波打ち、双肩渦高く盛り上ると見るや、ヌッと一足前へ出た。
 と、一足要介は下った。
 多四郎は二足ヌッと出た。
 要介は退いた。
 全く同じだ!
 ドドドドッという足音!
 突き進むは多四郎、退くは要介、たちまちにして形勢は一変し、今は要介押し返され、道場の破目板を背に負った。
 で、静止!
 しばらくの間!
 二本の剣が――木刀が、空を細かく細かく細かく、細かく細かく刻んでいる。
 多四郎勝ちか?
 追い詰め了《りょう》したか?
 否!
 ソロリと一足下った。
 追って要介が一足出た。
 粘りつ、ゆっくりと、鷺足さながら、ソロリ、ソロリ、ソロリ、ソロリと、二人は道場の中央まで出て来た。
 何ぞ変らざる姿勢と形勢と!
 全く以前と同じように、二人中段に構えたまま、見霞むばかりの大道場の、真中の辺りに人形のように小さく、寂然と立ち向かっているではないか。
 さすがに二人の面上には、流るる汗顎までしたたり、血上って顔色朱の如く、呼吸は荒くはずんでいた。
 窒息的なこの光景!
 なおつづく勝負であった。
 試合はつづけられて行かなければならない。
 が、忽然そのおりから、
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]秩父の郡《こおり》
小川村
逸見様庭の
桧の根
昔はあったということじゃ
[#ここで字下げ終わり]
 と、女の歌声が道場の外、庭の方から聞こえてきた。
「しばらく!」と途端に叫んだ要介、二間あまりスルスルと下ると、木刀を下げ耳を澄ました。
「…………」
 審かしそうに体を斜めに、しかし獲物は残心に、油断なく構えた逸見多四郎、
「いかがなされた、秋山氏?」
「あの歌声は? ……歌声の主は?」
「ここに控え居る東馬共々、数日前に、絹川において、某《それがし》釣魚《ちょうぎょ》いたせし際、古船に乗って正体失い、流れ来たった女がござった[#「ござった」は底本では「ごさった」]。……助けて屋敷へ連れ参ったが、ただ今の歌の主でござる」


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