塔伽藍聳えていたそうじゃが、その国分寺へとどまった……ところが止まったばかりでなく、前九年の役が終了した際、奥州産の莫大な黄金、それを携えて帰って来、それを国分寺の境内に、ひそかに埋めたということじゃ。それには深い訳がある」
こう話して来て要介は、またしばらく沈思した。
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要介はポツポツ話し出した。
「源氏は東国を根拠とすべし。根拠とするには金が必要だ。これをもってここへ金を埋めて置く。この金を利用して根を張るべし。――といったような考えから、金を埋めたということだ。……その後この地武蔵において、いろいろさまざまの合戦が起こったが、埋めてあるその金を利用したものが、いつも勝ったということじゃ。ところがそのつど利用したものは、他の者に利用されまいとして、残った金を別の所へ、いつも埋め代えたということじゃ。……治承《じしょう》四年十月の候、源頼朝が府中の南、分倍河原《ぶばいがわら》に関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、元弘《げんこう》三年新田義貞卿が、北條高時を滅ぼすべく、鎌倉に兵を進めようとし、分倍河原に屯して、北條泰家と合戦したが、その時も義貞は源氏というところから、その金を利用したという事じゃ。正平《しょうへい》七年十二月十九日、新田|義宗《よしむね》南軍を率い、足利尊氏を狩野河《こうのかわ》に討つべく、武蔵の国に入ったところ、尊氏すでに狩野河を発し、谷口から府中に入り、人見原《ひとみはら》にて激戦したが、義宗破れて入間川《いるまがわ》に退き、二十八日|小手差原《こてさしはら》にて戦い、ふたたび破れて退いたが、この時は足利尊氏が、これも源氏というところから、その金を利用したということじゃ。更に下って足利時代に入り、鎌倉の公方足利成氏、管領上杉|憲忠《のりただ》を殺した。憲忠の家臣長尾|景晴《かげはる》、これを怒って手兵を率い、立川原で成氏と戦い、大いに成氏を破ったが、この時はその金を景晴が利用し、その後その金を用いた者で、史上有名の人物といえば、布衣《ふい》から起こって関八州を領した、彼の小田原《おだわら》の北條|早雲《そううん》、武蔵七党の随一と云われた、立川宗恒《たてかわむねつね》、同恒成、足利学校の創立者、武人《ぶじん》で学者の上杉|憲実《のりざね》。……ところがそれが時代が移って、豊臣氏とな
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