膳は、「お浦、俺の云うことを諾《き》け」と云い出した。
 お浦はお浦で、五郎蔵から、
「あんな三下に、大金を強請《ゆす》られたは心外、さりとて、乾児《こぶん》を使って取り返すも大人気ない。お浦、お前の腕で取り返しな。取り返したら、金はお前にくれてやる」と云われ、その気になり、出かけて来た身だったので、「ここではあんまり内密《ないしょ》の話も出来ないから……ともかくも外へ出て」と、連れ出して来たのであった。
「どこへ行くのだお浦、ひどく寂しい方へ連れて行くではないか……」
 と、典膳は、お浦の肩へ手をかけようとした。
 お浦は、それをいなし[#「いなし」に傍点]たが、
「何をお云いなのだよ。この人は……」
 そのくせ、心では、(一筋縄ではいけそうもない。……それにこんな破落戸《ならず》武士、殺したところで。……そうだ、いっそ息の根止めて……)と、思っているのであった。
 典膳がよろめいて、お浦の肩へぶつかった時、お浦は、何気なさそうに、典膳の懐中《ふところ》へ手をやった。
「これ!」
「胴巻かえ?」
「うん」
「重たそうだねえ」
「百二十五両!」
「ああ、昼間の金だね」
「うん。……五郎蔵め、よく出しおった。旧悪ある身の引け目、態《ざま》ア見ろだ。……お浦、いうことを諾いたら、金をくれるぞ。十両でも二十両でも」
「金なら、妾だって持っているよ」
「端《はし》た金だろう」
「鋼鉄《はがね》さ、斬れる金さ」
 お浦は、片手を懐中へ入れ、呑んでいた匕首《あいくち》を抜くと、「そーれ、斬れる金を!」と、典膳の脇腹へ突っ込んだ。
「ヒエーッ、お浦アーッ、さては汝《おのれ》!」
「汝も蜂の頭もありゃアしないよ」
 胴巻をグルグルと手繰《たぐ》り出し、背を抱いていた手を放すと、典膳は、弓のようにのけ反ったまま、川の中へ落ちて行った。
(止どめを刺さなかったがよかったかしら?)
 お浦は、岸から覗き込んだ。急の水は、典膳を呑んで、下流へ運んで行ったと見え、その姿は見えなかった。
「案外もろいものだねえ」
 草で匕首の血糊を拭った時、
「お浦殿、やりましたな」
 という声が聞こえて来た。さすがにお浦もギョッとして、声の来た方を見た。竹藪を背にして、編笠をかむった武士が立っていた。
「どなた?」
「旅の者じゃ」
「見ていたね」
「さよう」
「突き出す気かえ」
「役人ではない」
「話せそうね」
 と、お浦は、構えていた匕首を下ろし、
「見|遁《の》がしてくれるのね」
「殺して至当の悪漢じゃ」
「ご存知?」
「賭場で見ていた」
「まあ」

    お浦の恋情

「昼の間、五郎蔵殿の賭場へ参った者じゃ」
「あれ、それじゃア、まんざら見ず知らずの仲じゃアないのね」
「それに、同宿の誼《よし》みもある」
「同宿?」
「拙者は、府中の武蔵屋に泊まっておる」
 編笠の武士、すなわち、伊東頼母は、そう、今日、府中へ来ると、五郎蔵一家が、武蔵屋へ宿を取っていると聞き、近寄る便宜にもと、同じ旅籠《はたご》へ投じたのであった。しかるに、五郎蔵はじめその一家が、もう賭場へ出張ったと聞き、自分も賭場へ出かけて行ったのであった。
「まあ。武蔵屋に。それはそれは。妾も、武蔵屋の婢女《おんな》でござんす」
「賭場で、典膳という奴、五郎蔵殿へ因縁つけたのを見ていた。殺されても仕方ない」
「それで安心。……妾アどうなることかと。……でも、芳志《こころざし》には芳志を。……失礼ながら旅用の足《た》しに……」
 と、お浦が、胴巻の口へ手を入れたのを、頼母は制し、
「他に頼みがござる」
「他に……」お浦は、意外に思ったか、首を傾《かし》げたが、何か思いあたったと見え、やがて、月光の中で、唇をゆがめ、酸味《すみ》ある笑い方をしたかと思うと、「弱いところを握られた女へ、金の他に頼みといっては、さあ、ホッ、ホッ」
「誤解しては困る」
 と、頼母は、少し周章《あわ》てた。しかし厳粛の声で、「不躾《ぶしつ》けの依頼をするのではない」
「では……」
「賭場に神棚がありましたのう」
「ようご存知」
「ご神体は?」
「はい、天国とやらいう刀……」
「天国※[#感嘆符疑問符、1−8−78] おお、やっぱり! ……お浦殿、その天国を拝見したいのじゃが」
「天国様を? ……異《い》なお頼み。……何んで?」
「拙者は武士、武士は不断に、名刀を恋うるもの。天国は、天下の名器、至宝中の至宝、武士冥利、一度手に取って親しく」
「なるほどねえ、さようでございますか。……いえ、さようでございましょうとも、女の身の妾などにしてからが、江戸におりました頃、歌舞伎を見物《み》、水の垂れそうに美しい、吉沢あやめの、若衆姿など眼に入れますと、一生に一度は、ああいう役者衆と、一つ座敷で、盃のやり取りしたいなどと。……同じ心持ち、よう解りまする。……では何んとかして、あの天国様を。……おおちょうど幸い、五郎蔵親分には、あの天国様を、賭場へ行く時には賭場へ持って行き、宿へ帰る時には宿へ持って帰りまする。……今夜妾がこっそり持ち出し、あなた様のお部屋へ……」
「頼む」
「お部屋は?」
「中庭の離座敷《はなれ》」
「お名前は?」
「伊東頼母」
「お顔拝見しておかねば……」
 頼母は、そこで編笠を脱いだ。
 お浦はその顔を隙《す》かして見たが、「まあ」と感嘆の声を上げた。「ご縹緻《きりょう》よしな! ……お前髪立ちで! 歌舞伎若衆といおうか、お寺お小姓と云おうか! 何んとまアお美しい!」
 見とれて、恍惚《うっとり》となったが、
「女冥利、妾アどうあろうと……」
 と、よろめくように前へ出た。
 若衆形吉沢あやめに似ていると囃された、無双の美貌の頼母が、月下に立った姿は、まこと舞台から脱《ぬ》け出した芝居の人物かのようで、色ごのみの年増女などは、魂を宙に飛ばすであろうと思われた。前髪のほつれが、眉のあたりへかかり、ポッと開けた唇から、揃った前歯が、つつましく覗いている様子など、女の子よりも艶《なまめ》かしかった。
「天国様は愚か、妾ア……」
 と、寄り添おうとするのを、
「今夜、何時に?」
 と、頼母は、お浦を押しやった。
「あい、どうせ五郎蔵親分が眠ってから……子《ね》の刻頃……」
「間違いござるまいな」
「何んの間違いなど。……あなた様こそ間違いなく……」
「お待ちしましょう」
 と、云い棄て、頼母は歩き出した。お浦は、その背後《うしろ》姿を、なお恍惚とした眼付きで見送ったが、
(妾ア、生き甲斐を覚えて来たよ)

    紙帳の中

 この夜が更けて、子の刻になった時、府中の旅籠屋、武蔵屋は寝静まっていた。
 と、お浦の姿が、そこの廊下へ現われた。廊下の片側は、並べて作ってある部屋部屋で、襖によって閉ざされていたが、反対側は中庭で、月光が、霜でも敷いたかのように、地上を明るく染めていた。質朴な土地柄からか、雨戸などは立ててない。お浦は廊下を、足音を忍ばせて歩いて行った。廊下が左へ曲がった外れに、離座敷《はなれ》が立っていた。藁葺《わらぶ》き屋根の、部屋数三間ほどの、古びた建物で、静けさを好む客などのために建てたものらしかった。離座敷は、月に背中を向けていたので、中庭を距てた、こっちの廊下から眺めると、屋根も、縁側も、襖も、一様に黒かった。お浦は、そこの一間に、自分を待っている美しい若衆武士のことを思うと、胸がワクワクするのであった。(早くこの天国様をお目にかけて、その代りに……)と、濃情のこの女は、刀箱を抱えていた。
 やがて、離座敷の縁側まで来た。お浦は、年にも、茶屋女という身分にも似ず、闇の中で顔を赧らめながら、部屋の襖をあけ、人に見られまいと、いそいで閉め、
「もし。……参りましたよ」
 と虚《うつろ》のような声で云い、燈火《ともしび》のない部屋を見廻した。と、闇の中に、仄白く、方形の物が懸かっていた。
(おや?)とお浦は近寄って行った。紙帳であった。(ま、どうしよう、部屋を間違えたんだよ)
 と、あわてて出ようとした時、紙帳の裾から、白い、細い手が出て……、
「あれ!」
 しかし、お浦は、紙帳の中へ引き込まれた。
 附近《ちかく》の農家で飼っていると見え、家鶏《にわとり》の啼き声が聞こえて来た。
 部屋の中も、紙帳の中も静かであった。
 紙帳は、闇の中に、経帷子《きょうかたびら》のように、気味悪く、薄白く、じっと垂れている。
 家鶏《とり》の啼いた方角から、今度は、犬の吠え声が聞こえて来た。祭礼の夜である、夜盗などの彷徨《さまよ》う筈はない、参詣帰りの人が、遅く、その辺を通るからであろう。
 やがて、燧石《いし》を切る音が、紙帳の中から聞こえて来、すぐにボッと薄黄いろい燈火《ひのひかり》が、紙帳の内側から射して来た。
 さてここは紙帳の内部《なか》である。――
 唐草の三揃いの寝具に埋もれて、お浦が寝ていた。夜具の襟が、頤の下まで掛かってい、濃化粧をしている彼女の顔が、人形の首かのように、浮き上がって見えていた。眼は細く開いていて、瞳が上瞼《うわまぶた》に隠され、白眼ばかりが、水気を帯びた剃刀《かみそり》の刀身《み》かのように、凄く鋭く輝いて見えた。呼吸をしている証拠として、額から、高い鼻の脇を通って、頬にかかっている後《おく》れ毛が、揺れていた。しかし尋常の睡眠《ねむり》とは思われなかった。気を失っているのらしい。
 そのお浦の横に、夜具から離れ、畳の上に、膝を揃え、端然と、五味左門が坐っていた。
 ふと手を上げて鬢《びん》の毛を撫でたが、その手を下ろすと、ゆるやかに胸へ組み、
「蜘蛛《くも》はただ網を張っているだけだ」と、呟いた。
「その網へかかる蝶や蜂は……蝶や蜂が不注意《わるい》からだ」
 と、また、彼は呟いた。
 独言《ひとりごと》を云うその口は、残忍と酷薄とを現わしているかのように薄く、色も、赤味などなく、薄墨のように黒かった。
 それにしても、紙帳に近寄る男は斬り、紙帳に近寄る女は虐遇《さいな》むという、この左門の残忍性は、何から来ているのであろう?
 紙帳生活から来ているのであった。
 彼の父左衛門は、生前、春、秋、冬を、その中に住み、夏は紙帳《きれ》を畳んで蒲団の上に敷き、寝茣蓙代りにしたが、左門も、春、秋、冬をその中に住み、夏は寝茣蓙代りに、その上へ寝た。そういうことをすることによって、亡父《ちち》の悩みや悶えを体得したかったのである。そう、彼の父左衛門は、紙帳に起き伏ししながら、天国の剣を奪われて以来衰えた家運について、悩み悶えたのであった。……しかるに左門は、紙帳の中で起き伏しするようになってから、だんだん一本気《いっこく》となり、狭量となり、残忍殺伐となった。何故だろう? 狭い紙帳を天地とし、外界《そと》と絶ち、他を排し、自分一人だけで生活《くら》すようになったからである。そういう生活は孤独生活であり、孤独生活が極まれば、憂欝となり絶望的となる。その果ては、気の弱い者なら自殺に走り、気の強いものなら、欝積している気持ちを、突発的に爆発させて、兇暴の行為をするようになる。左門の場合はその後者で、無意味といいたいほどにも人を斬り、残忍性を発揮するのであった。
「突然はいって来たこの女は? ……」
 呟き呟き彼は、女の寝顔を見た。その眼は、※[#「足」の「口」に代えて「彡」、第3水準1−92−51]《しんにゅう》の最後の一画を、眉の下へ置いたかのように、長く、細く、尻刎ねしていた。
「これは何んだ?」と、女の枕もとに転がっている、白い風呂敷包みの、長方形の物へ眼を移した時、彼は呟いた。やがて彼は手を延ばし、風呂敷包みを引き寄せ、包みを解いた。白木の刀箱が現われた。箱の表には、天国と書いてある。
「天国?」
 彼は、魘《うな》されたような声で呟いた。瞬間に、額こそ秀でているが、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》の低い、頬の削《こ》けた、鼻が鳥の嘴《くちばし》のように鋭く高い、蒼白の顔色の、長目の彼の顔が、注した血で、燃えるように赧くなった。烈しい感動を受けたからである。
「天国
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