?」
 彼の肩がまず顫《ふる》え、その顫えが、だんだんに全身へ伝わって行った。
「天国? ……まさか!」
 にわかに、彼は口を歪め、眼尻へ皺を寄せた。嘲笑ったのである。
「まさか、こんな所に天国が!」
 しかも彼の眼は、刀箱の箱書きの文字に食い付いているのであった。
 彼が天国の剣に焦《こ》がれているのは、親譲りであった。彼の父、左衛門は、生前彼へこう云った。「我が家には、先祖から伝わった天国の剣があったのじゃ。それを今から二十年前、来栖勘兵衛、有賀又兵衛という、浪人の一党に襲われ、奪われた。……どうともして探し出して、取り返したいものだ」と。――その左衛門が、自殺の直後、忰《せがれ》左門へ宛てて認《したた》めた遺書には、万難を排して天国を探し出し、伊東忠右衛門一族に示せよとあった。父の敵《かたき》として忠右衛門を討ち取り、父の形見として紙帳を乞い受け、故郷を出た左門が、日本の津々浦々を巡っているのも、天国を探し出そうためであった。その天国がここにあるのである。
「信じられない!」
 彼はまた魘されたような声で云った。そうであろう、蜘蛛の網にかかった蝶のように、紙帳の中へはいって来た、名さえ、素姓さえ知らぬ女が、天下の至宝、剣の王たる、天国を持っていたのであるから。
「……しかし、もしや、これが本当に天国なら……」
 それでいて彼は、早速には、刀箱の蓋《ふた》を開けようとはしなかった。開けて、中身を取り出してみて、それが贋物《にせもの》であると証明された時の失望! それを思うと、手が出せないのであった。まさか! と思いながら、もし天国であったなら、どんなに嬉しかろう! この一|縷《る》の希望を持って、左門は、尚も刀箱を見据えているのであった。
「これが天国なら、この天国で、伊東頼母めを返り討ちに!」
 また、呻《うめ》くように云った。

    恩讐壁一重

 彼は、故郷《くに》からの音信《たより》で、忠右衛門の忰の頼母が、自分を父の敵だと云い、復讐の旅へ出たということを知った。彼は冷笑し、(討ちに来るがよい、返り討ちにしてやるばかりだ)とその時思った。そうして現在《いま》では、天国を求める旅のついでに、こっちから頼母を探し出し、討ち取ろうと心掛けているのであった。
 正気に甦《かえ》ると見えて、お浦が動き出した。肉附きのよい、ムッチリとした腕を、二本ながら、夜具から脱き、敷き布団の外へ抛り出した。
 と、左門は、刀箱を掴んだが、素早く、自分の背後へ隠し、その手で、膝脇の自分の刀を取り上げた。女が正気に返り、騒ぎ出したら、一討ちにするつもりらしい。武道で鍛えあげた彼の体は、脂肪《あぶら》も贅肉《ぜいにく》も取れて、痩せすぎるほどに痩せていた。それでいて硬くはなく、撓《しな》いそうなほどにも軟らかく見えた。そういう彼が、左の手に刀を持ち、それを畳の上へ突き及び腰をし、長く頸を延ばし、上からお浦を覗き込んでいる姿は、昆虫――蜘蛛が、それを見守っているようであった。紙帳の中へ引き入れられてある行燈《あんどん》の、薄黄いろい光は、そういう男女を照らしていたが、男女を蔽うている紙帳をも照らしていた。内部《うち》から見たこの紙帳の気味悪さ! 血蜘蛛の胴体《どう》は、厚味を持って、紙帳の面に張り付いていた。左衛門が投げ付けた腸《はらわた》の、皮や肉が、張り付いたままで凝結《こご》ったからであった。それにしても、蜘蛛の網が、何んとその領分を拡大《ひろ》めたことであろう! 紙帳の天井にさえ張り渡されてあるではないか。血飛沫《ちしぶき》によって作られた網が! 思うにそれは、先夜、飯塚薪左衛門の屋敷で、左門によって討たれた浪人の血と、片足を斬り取られた浪人の血とによって、新規《あらた》に編まれた網らしく、血の色は、赤味を失わないで、今にも、糸のように細い滴《しずく》を、二人の男女《もの》へ、したたらせはしまいかと思われた。
 お浦は、夜具からはみ出した腕を、宙へ上げ、何かを探すような素振りをしたが、
「頼母様! 天国様を持って参りました!」
 と叫んだ。もちろん、夢中で叫んだのである。

 その頼母は、ずっと以前《まえ》から、壁一重へだてた隣りの部屋《へや》に、お浦を待ちながら、粛然と坐り、「一刀斎先生剣法書」を、膝の上へ載せ、行燈の光で、読んでいた。
 下婢《おんな》の敷いて行った寝具《よるのもの》は、彼の手で畳まれ、部屋の片隅に置かれてあった。女を待つに寝ていてはと、彼の潔癖性が、そうさせたものらしい。前髪を立てた、艶々しい髪に包まれた、美玉のような彼の顔は、淡く燈火の光を受けて、刻《ほ》りを深くし、彫刻のような端麗さを見せていた。
「事ノ利ト云フハ、我一ヲ以《モツ》テ敵ノ二ニ応ズル所也。譬《タトヘ》バ、撃チテ請《ウ》ケ、外シテ斬ル。是レ一ヲ以テ二ニ応ズル事也。請ケテ打チ、外シテ斬ルハ、一ハ一、二ハ二ニ応ズル事也。一ヲ以テ二ニ応ズル時ハ必ズ勝ツ」
 彼は口の中で読んで行った。
(すなわち、積極的に出れば必ず勝つということなのだな)
 彼は、本来が学究的の性格だったので、剣道を修めるにも、道場へ通って、竹刀《しない》や木刀で打ち合うことだけでは満足しないで、沢庵禅師の「不動智」とか、宮本武蔵の「五輪の書」とか、そういう聖賢や名人の著書を繙《ひもと》くことによって、研究を進めた。今、「一刀斎先生剣法書」を読んでいるのもそのためであった。
(積極的に出れば必ず勝つということだな……少なくも、五味左門と出合った時には、この法で、この意気で、立ち合わなければならない)
(お浦はどうしたものであろう?)
 頼母は、「一刀斎先生剣法書」から眼を放し、考えた。
 さっき、縁側で人の気配がしたので、それかと思ったところ、隣りの部屋の襖が開き、そこへはいって行ったらしく、音沙汰なくなった。その後は、人の来る様子もなかった。
(浮気者らしかったお浦、俺のことなど忘れてしまったのかも知れない)
 時が経って行った。寝静まっている旅籠《はたご》からは、何んの物音も聞こえて来なかった。

    立ち向かった左門と頼母

 突然、隣りの部屋から、女の叫び声の聞こえて来たのは、さらにそれからしばらく経った後のことであった。(はてな?)と頼母は耳を澄ました。(変だ!)……というのは、その女の叫び声が「頼母様!」と聞こえ、「天国様を」と聞こえたからであった。しかしそれだけで、後は聞こえて来なかった。
(空耳だったかな)
 そのくせ頼母は、傍《かたわ》らの刀を掴み、立ち上がった。襖をあけて縁側へ出た。すぐ眼にはいったのは、月光で、霜でも降ったように見える広い中庭と、中庭を距《へだ》てて立っている母屋《おもや》とであった。縁側を左の方へ数歩あゆめば隣り部屋の前へ行けた。そこで頼母は足音を忍ばせ、隣り部屋の前まで行き、また、耳を澄ました。たしかに人のいる気配はあったが、声は聞こえなかった。
(これからどうしたものだろう?)
 不躾《ぶしつ》けに襖をあけることは出来なかった。とはいえ、女の声で、自分の名を呼び、天国様をと云ったからには、――空耳でないとして――声の主を確かめたかった。
(まさかお浦が、こんな部屋《ところ》へ来ていようとは思われないが……)
 しかし……いや、しかしも何もない、声の主を確かめさえすればよいのだ! ……しかし、それをするには、やっぱり襖をあけなければ……。
(咎《とが》められたら、部屋を間違えたと云えばよい)
 頼母は、わざと無造作に襖をあけた。
「あッ」
 声と一緒に、ほとんど夢中で、頼母は、庭へ飛び下り、これも夢中で抜いた刀を、中段に構え、切っ先越しに、部屋の中を睨《にら》んだ。
 見誤りではなかった。帳内《なか》で灯っている燈の光で、橙黄色《だいだいいろ》に見える紙帳が、武士の姿を朦朧《もうろう》と、その紙面《おもて》へ映し、暗い部屋の中に懸かっている。
(林の中に釣ってあった紙帳だ。では、あの中にいる武士は、五味左門に相違ない。……先夜は、知らぬこととはいえ、同じ飯塚薪左衛門殿の屋敷へ泊まり合わせ、今夜は、同じこの旅籠の、しかも壁一重へだてた部屋に泊まり合わせようとは)
 運命の不思議さ気味悪さに、頼母は、一瞬間茫然としたが、
(左門は親の敵、あくまで討ち取らなければならないのであるが、あの凄い腕前では……)
 体の顫えを覚えるのであった。
 しかし彼にとって、一抹の疑惑があった。紙帳は、左門ばかりが釣っているとは限らない。紙帳の中の武士は、左門ではないかもしれない……。
(何んといって声をかけたらよかろうか?)
 彼はしばらく紙帳を睨んで躊躇《ためら》った。
 紙帳は、そういう彼を、嘲笑うかのように、そよぎ[#「そよぎ」に傍点]もしないで垂れている。
「卒爾ながら、紙帳の中のお方にお訊ね致す」
 と、とうとう頼母は、少し強《こわ》ばった声で云った。
「貴殿、先夜、飯塚薪左衛門殿の屋敷へ、お泊まりではなかったかな」
 こう云ってから、これはいいことを訊いたと思った。泊まったといえば、紙帳の中の武士は、五味左門に相違ないからであった。何故というに、左門は、先夜、自分の本名を宣《なの》って、薪左衛門の屋敷へ泊まったということであるから。
 しかし紙帳の中からは、返辞がなく、紙帳に映っている人影も、動かなかった。
 頼母は焦心《あせり》を感じて来た。それで、ジリジリと、縁側の方へ歩み寄りながら、
「貴殿はもしや、五味左門と仰せられるお方ではござらぬかな?」と訊いた。
 すると、ようやく、紙帳に映っている人影が動き、嗄《しわが》れた声で、
「そう云われる貴殿は、どなたでござるかな?」
 と訊き返した。
「拙者は……」
 と、頼母は云ったが、当惑した。本名を宣るものだろうか、それとも、偽名を使ったものだろうか?
(相手が五味左門なら、当然宣りかけて討ち取らなければならないし、もしまた人違いなら、無断に襖をあけ、抜き身をさえ構えて誰何《すいか》した無礼を、これまた、本名を宣って詫びなければならないのだから……)
 頼母は、本名を宣ることにした。
「拙者ことは、伊東頼母と申し、隣りの部屋へ泊まり合わせたものでござる」
 俄然騒動が起こった。
「おお頼母様でございますか! 妾《わたし》はお浦でございます! ……部屋を取り違えて……」
 という声が、紙帳の中から起こり、すぐに、女の立ち上がる影法師が、紙帳の面へ映った。が、それは一瞬間で、たちまち悲鳴が起こり、女の姿が仆《たお》れるのが見え、つづいて燈火が消え、部屋の闇の中に、ぼんやりと白く紙帳ばかりが残った。
 しかし、やがて、紙帳の裾が、鉄漿《おはぐろ》をつけた口のようにワングリと開き、そこから、穴から出る爬虫類《ながむし》かのように、痩せた身長《せい》の高い武士が出て来た。刀をひっさげた左門であった。左門は、縁先まで一気に出、その気勢に圧せられ、後へ退り、抜き身を構えている頼母を睨《にら》んだが、
「貴殿が伊東頼母殿か、拙者は五味左門、巡り逢いたく思いながら、これまでは縁なくて逢いませなんだが、天運|拙《つたな》からず今宵《こよい》逢い申したな。本懐! ……貴殿にとっては拙者は、父の敵でござろうが、拙者にとっても貴殿は、父の敵の嫡宗《ちゃくそう》、恨《うら》みがござる! 果たし合いましょうぞ!」
 と、例の、嗄れた、陰湿とした声で云った。

    難剣「逆ノ脇」

 左門は急に驚いたように、
「貴殿とは、今宵が初対面と思いましたが、そうではござらぬな。過ぐる夜拙者、道了塚のほとりの、林の中で野宿をいたし、通りかかりのお武家を呼び止め、腰の物拝見を乞いましたところ、拒絶《ことわ》られ、やむを得ず、一当てあてて[#「あてて」に傍点]……フッフッ、若衆武士殿を気絶させましたが、どうやらそれが貴殿らしい。……頼母殿、さようでござろう」
 痛いところへさわられた頼母は、赤面し、切歯し、黙っていた。しかし彼には左門が気味悪く思われてならなかった。黒く大きく立っている離座敷《はなれ》、――壁と襖とは灰白《は
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