う名のお方でござるかな?」
「はい、そのお方の名は……」
栞が云いかけた時、紙帳の外から、
「やア、ここに紙帳が釣ってあるわ! ……やア、左門めの紙帳じゃ!」
という声が聞こえた。
頼母の声であった。
「左門!」と、その声は叫んだ。「我は伊東頼母、先夜は府中武蔵屋で、むざむざ取り逃がしたが、再度ここで巡り合ったは天の祐《たす》け! 父親の敵、今度こそは遁《の》がしはせぬ! 出て来て勝負を致せ!」
「頼母様アーッ」
と、その声を聞いて、まず呼ばわったのは、栞であった。
「頼母様アーッ、妾、栞でござりまする! ……今日あたりお帰りくださりましょうかと、心待ちに待っておりましたところ! おお、やっぱりお帰りくだされましたか! ……それにいたしても変った所で! 頼母様アーッ」
と、栞は、叫び叫び、紙帳の裾をかかげ、外へ出ようとした。しかし、その栞は、背後から、左門の手によって引き戻された。
「伊東頼母氏か。……紙帳の中におる者は、いかにも五味左門、貴殿父上の敵じゃ! ……が、頼母殿、紙帳の中には、もう一人|人《ひと》がいる! 飯塚薪左衛門殿の娘栞殿じゃ! ……いや、驚き申したわ。栞殿に恋人のあること、たった今、この帳中で、栞殿より承ってござるが、その恋人が、貴殿、頼母殿であろうとは!」
左門は、そう云い云い、刀の柄を右手で掴んだが、一振りすると鞘を飛ばせ、蒼光る刀身を、頼母のいると覚しい方へ差し付けた。
「悪縁といえば、よくよくの悪縁でござるよの」と左門は、辛辣な声で云いつづけた。
「貴殿のお父上を討ち取ったばかりか、武蔵屋では、貴殿の恋人、博徒五郎蔵の女お浦という者を、拙者この帳中で。……しかるに、同じこの紙帳の中で、貴殿第二の恋人、栞殿を。……重なる怨みとはこの事! フッフッ、これでは貴殿、拙者を見遁がすことなりますまいよ!」
悲痛の頼母
「頼母様アーッ」
と栞は、左門の手から遁がれよう遁がれようと身悶えしながら、必死となって叫んだ。
「左門様が、あなた様のお父様の敵などとは夢にも知らず、先刻《さきほど》から、紙帳の中で、物語りいたしましたは真実ではござりまするが、何んの貞操《みさお》を!」
「それは真実じゃ!」
と、左門は、意外に真面目の声で云った。
「栞殿は、純潔じゃ。……それから……」と云ったが、云い止めた。
しかし、やがて決心したように、誠実のこもった声で、
「先夜、武蔵屋で、お浦と申す女子を手に入れたよう申したが、これも嘘じゃ! ……拙者に関する限り、お浦という女は純潔じゃ! ……本来、拙者は女嫌いでな。いわば女性嫌忌性なのじゃ!」
(それにしても)
と、左門は、自分で自分を疑った。
(どうして、こう、俺は素直な気持ちになったのであろう。……先夜は、頼母めを苦しめようために、手を触れさえしなかったお浦という女を、手に入れたなどと偽《いつ》わり云ったのに。……いまに至ってそれを取り消すとは)
――左門には、その理由がわからなかったが、しかし、その理由は、栞というような、本当に無邪気な、純な処女と、罪のない、子供同士のような話をし、腹の底から笑ったことが影響し、彼の心が、人間本来の「善」に帰ったからであるかもしれない。
「動くか、頼母!」
しかし、突然、左門は一喝し、グルリと体を廻し、紙帳の、側面の方へ向き、刀を差し付けた。
「紙帳の内と外、見えぬと思うと間違うぞよ。……紙帳の中にいる左門こそ、不動智の位置にいる者じゃ。左へも右へも、前へも後へも、十方八方へ心動きながら、一所へは、瞬時も止まり居坐らぬ心の持ち主じゃ。眼光《め》は、紙背に徹するぞよ! ……嘘と思わば証拠を挙げようぞ。……汝、今、紙帳より一間の距離《へだたり》を持ち、正面より側面へ移ったであろうがな。……現在《いま》は同じく一間の距離を持ち、紙帳の側面、中央《なかば》の位置に立ち、刀を中段に構え、狙いすましておろうがな。……動くか!」
と、またも大喝し、左門は、グッと左へ体を向け、紙帳の背面へ刀を差し付けた。
紙帳は、二人を蔽うて、天蓋のように、深く、静かに、柔らかく垂れていた。縦縞のように、時々襞が出来るのは、風が吹きあたるからであろう。
ここは紙帳の外である。――
頼母は、刀を中段に構え、紙帳から一間の距離を保ち、紙帳を睨《にら》んで突っ立っていた。全身汗を掻き、顔色蒼褪め、眼は血走っていた。お浦と典膳とを戸板に載せ、五郎蔵の乾児二人に担がせ、ここまで走って来た頼母であった。見れば、林の空地に、見覚えのある、五味左門の紙帳が釣ってあった。驚き喜び、宣りかけたところ、意外も意外、恋人栞が、その中にいて、声を掛けたとは! ……それが、殺人鬼のような左門の手中にあって、身うごきが出来ずにいるとは!
これだけでも頼母は、逆上せざるを得なかった。その上、剣技にかけては、段違いに優れた左門によって、紙帳の中から、嘲弄されたのである。頼母は文字通り逆上した。
(父の敵の左門、討たいで置こうか! 恋人の栞、助けないで置かれようか!)
思うばかりで、体はほとんど自由を欠いていた。眼前の紙帳が、鉄壁のように彼には思われた。鉄壁を貫いて、今にも、左門の剣が、閃めき出るように思われた。腕が強《こわ》ばり、呼吸がはずみ、足の筋が釣った。それでも、彼は、隙を狙うべく、紙帳を巡った。帳中の左門によって、見抜かれてしまった。
手も足も出ないではないか。
常磐木と花木と落葉樹との林が立っている。鳥が翔《か》け過ぎ、兎が根もとを走り、野鼠が切り株の頂きに蹲居《うずくま》り、木洩れ陽が地面に虎斑を作っている。
そういう世界を背後に負い、血痕斑々たる紙帳を前にして、頼母は、石像のように立っていた。差し付けた刀の切っ先を巡って、産まれたばかりらしい蛾が、飛んでいる。
と、その時、
「頼母様アーッ」
と呼ぶ、凄愴の声が聞こえて来た。
頼母のいる位置から、十数間離れた、胡頽子《ぐみ》と野茨との叢《くさむら》の横に、戸板が置いてあり、そこから、お浦が、獣のように這いながら、頼母の方へ、近づきつつあった。頼母様アーッと呼んだのは、お浦であった。彼女の眼に見えているものは、紙帳であり、彼女の耳に聞こえたものは、頼母と左門との声であった。武蔵屋の紙帳の中で、二度まで気絶させられた怨みある左門が紙帳の中にいる! その左門は、自分にとっては、救世主とも思われる頼母様の親の敵だという! おのれヤレ左門、怨みを晴らさで置こうか! 懐かしい頼母様! お助けしないでおられようか! ……一人には怨みを晴らし、一人には誠心《まごころ》を捧げてと、息絶え絶えながら、彼女は、紙帳の方へ這って行くのであった。
殺気林に充つ
お浦は、獣のように這って進んだが、渋江典膳は、よろめいたり、膝を突いたり、立ち木に縋ったりしながらも、さすがに立って、この時、道了塚の方へ歩いていた。
そう、彼は、ここまで運ばれて来て、ここが、道了塚附近の林であることを知るや、
(この負傷《いたで》では、どうせ命はない。では、せめて、数々の思い出と、数々の罪悪とを残している道了塚で、息を引き取ろう。……東十郎への罪滅しにもなれば、懺悔《ざんげ》にもなる)
とこう思って、そっちへ歩きだしたのであった。
歩くにつれて、足からも手からも血がしたたった。
しかし彼が道了塚まで辿《たど》りついたなら、南無妙法蓮華経と刻《ほ》られた碑《いしぶみ》にもたれ、天国の剣を放心したように握り、眼を閉じ、首を傾げ、昔の記憶を蘇生《よみがえ》らせようと、じっと思いに耽っている、飯塚薪左衛門の姿を、見かけなければならないだろう。
そう、薪左衛門は、そういう姿勢で、この頃、道了塚の頂きに坐っていた。
彼の顔には苦悶の表情があり、彼の体は不安に戦《おのの》いていた。白髪には陽があたり、銀のように輝いていたが、その頭は、高く上がりそうもなかった。
人間の思考の中に、盲点というものがある。その盲点の圏内にはいった記憶は、奇蹟的事件にぶつからない限り、思い出されないということである。何故薪左衛門が、来栖勘兵衛と、この道了塚で決闘したか、その理由の解らないのも、その盲点に引っかかっているからであるらしい。
そうして、さっき聞こえて来た、塚の下からの悲しい叫び声、
「秘密は剖《あば》かない、裏切りはしない、助けてくれーッ」
という声の主の何者であるか? 何んでそう叫ぶのか? それらのことの解らないのも、盲点の圏内に、その記憶が引っかかっているかららしい。
ところで……広々と展開《ひら》けている耕地を海とし、立ち連なっている林を陸とすれば、道了塚は、陸に近い、小島と云ってよく、その小島にあって、陸の林の一方を眺めたなら、林の縁を、人家の方へ一散に走って行く、二人の人影を見たであろう。戸板を舁き捨て、素早く逃げ出した五郎蔵の二人の乾児《こぶん》であった。二人の走って行く様は、檻《おり》から解放された獣かのように軽快であった。
と、その二人の走って行く方角の、十数町の彼方《あなた》から、此方《こなた》を目差し、二十人ほどの一団が、林へ駆け込んだり、耕地へ出たりして、走って来るのが見えた。
松戸の五郎蔵と、その乾児たちであった。
五郎蔵の左右に従《つ》いているのは、角右衛門と紋太郎とで、この二人の注進により、五郎蔵は、頼母によって、自分の乾児たちが殺されたことを知り、復讐のために乾児を率い、農家の納屋へ馳せつけた。乾児たちの死骸が転がっているばかりで、頼母の姿も、お浦、典膳の姿も見えなかった。母屋の門口で、種を選《え》り分《わ》けていた老婆に訊《き》くと、戸板を担《にな》った三人の者が、林の中へ駆け込んだと云う。
(頼母が、お浦と典膳とを戸板に載せ、生き残った俺の乾児に担《かつ》がせ、逃げたのだ)
と、五郎蔵は察した。怒りと、嫉妬とが彼を狂気のようにした。
「どこまでも追っかけ、探し出し、頼母、典膳、お浦、三人ながら叩っ殺せ!」
こうして一団は林へ駆け込み、こっちへ走って来るのであった。乾児の中には、竹槍を持っている者もあった。もう性急に脇差しを抜いて、担いでいる者もあった。武士あがりの、逞《たく》ましい顔の五郎蔵は、額からも頤からも汗をしたたらせ、火のような息をしながら、先頭に立って走っていた。
殺気は次第に道了塚と、その附近の林とに迫りつつあった。
それだのに、紙帳の中の、何んと、今は静かなことだろう! 左門の声も栞の声も聞こえず、咳《しわぶき》一つしなかった。
頼母は、そういう気味悪い沈黙の紙帳を前にして、石像のように立ち尽くしていた。構えている刀の切っ先が顫えているのは、彼の心が焦慮している証拠であった。
(何故|沈黙《だま》っているのだろう? 何が行われているのだろう? ……栞はどうしているのだ? ……いや栞は何をされているのだろう?)
恋人の栞が、殺人鬼のような左門と、紙帳の中にいる。二人ながら黙っている。何をされているのだ? もしや咽喉でも絞められて? ……
これを思うと頼母の腸《はらわた》は掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》られるようであった。
必死のお浦
この時、遙かの林の奥から、喊声が聞こえて来た。五郎蔵たちの一団と、戸板を置き捨て、逃げて行った二人の乾児とが邂逅《めぐりあ》い、二人の乾児によって、頼母と、お浦と、典膳との居場所を知った五郎蔵たちの揚げた声であった。
「逃がすな!」「もう一息だ!」
二十数人の一団は、藪を廻り、木立ちを巡り、枯れ草を蹴開き、無二無三に走った。
「いたぞーッ」
という叫びをあげたのは、先頭切っていた五郎蔵であった。
「左門などには眼をくれるな! 頼母とお浦と典膳とを仕止めろ!」
こう五郎蔵が叫んだ時には、長脇差しを抜いていた。
悪罵と怒号とが林を揺すり、乾児たちの抜いた、二十数本の脇差しが、湾に寄せた怒濤が、高く上げた飛沫《しぶき》のように白光った。そう、五郎蔵たちの一団は、紙帳を背後
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