ているのを見、(美しくて清らかで、若々しくて、まるで頼母様のようですこと)と思い、一輪の花の中へ分け入った時、木蓮の花の、倍もありそうな巨大な、そうして血のように赤い蜘蛛《くも》が、突然、頭上《うえ》から、舞い下がって来た。
「あッ、蜘蛛が!」と、蝶の栞は叫び、叫んだ自分の声に驚いて眼をさまし、起き上がった。と、狼狽して、紙帳の向こう側の隅へ、飛ぶように身を引き、そこへ、固くなって坐った若い、身長《せい》の高い、総髪の武士を認めた。
「まあ」と、栞は云って、驚きを二倍にしたが、立派なお侍さんが、女の自分の声に驚いて、ケシ飛んで行ったのがおかしく、それに気の毒でもあったので、「怖がらなくともよろしゅうございますの。……妾《わたし》、寝呆気《ねぼけ》て叫んだだけでございますもの」と云い、無邪気に、口をあけて笑った。
 武士――五味左門は、
「ナニ、怖がらなくともよいと。……ふうん」
 と、呆れて、まじまじと、栞の顔を見詰めた。
「あッ蜘蛛が」と叫ばれ、眼をさまされた。さすがの彼も、不意だったので胆をつぶし、思わず紙帳の隅へ飛び退がったまでで、相手を怖がったのでも何んでもなかった。怖がるといえば、栞こそ、怖がらなければならない筈である。はいったが最後、たいがいは殺される紙帳の中へはいり、殺人鬼のような当人の左門と向かい合っているのであるから。それだのに、その栞が、「怖がらなくともよい」と云う。「ふうん」と、左門としては呆れ返らざるを得なかった。
 しばらく顔を見詰め合っている二人を、紙帳は、昼の陽光《ひ》を浴びて、琥珀《こはく》色に、明るく、蔽うていた。時々、横腹が蠕動《ぜんどう》し、ウネウネと皺《しわ》を作ったり、フワリと膨れたりするのは、春風が、外から吹き当たるからで、そのつど、例の、血汐で描かれた巨大な蜘蛛が、数多い脚を動かした。
「まあ」と栞は、驚きの声をあげた。「あなた様は、先夜、妾の家へお泊まりくださいました、五味左門様では?」
「さよう左門でござる。……その際は、お騒がせいたしましたな」
 と、左門は、削《こ》けた、蒼白い頬へ皺を畳み煤色《すすいろ》の唇を幽《かす》かにほころばせて微笑した。
(殺人者の左門と知ったら、怖がることであろうぞ)と思ったからである。
 事実、栞は、その武士が、自分の屋敷で人を殺した、五味左門だと知ると、慄然とした。
(どうしよう?)
 しかし、次の瞬間には、
(妾は、この人に悪いことをしていないのだから、殺される気遣いはない)と、初心《うぶ》の娘らしい心から、そう思った。
 それに、自分の寝言に驚いて、紙帳の隅へケシ飛んで行った左門の様子が、いかにも笑止だったので、(この人、それほど悪い人でないに相違ない)
 と、思った。
 栞と左門とは、しばらく見詰め合っていた。
「一人のお侍様をお殺しになり、もう一人のお侍様の足を斬り落としなさいましたのね。……でも、よくよくのことがなければ、あのような惨酷《むごたらし》いことは……」
 と、ややあってから栞は考え深そうな様子で云った。
「きっとあの方達、あなた様に、よくよく悪いことを……」
「そうでもござらぬ」
「いいえ、きっとそうだと存じますわ。でも、あなた様というお方、気の弱い、臆病なお方でございますものねえ」

    馬鹿のような無邪気さ

「ナニ、気が弱くて臆病?」
 左門は、また呆れた。
「ええ、そうでございますわ。それに、謹み深い、丁寧な、善良《いい》お方でございますわ」
「…………」
「女の子の寝言に吃驚《びっく》りなすって、紙帳の隅へケシ飛んで行ったまま、お行儀よく、膝にお手を置いて、かしこまっておいでになるのですものねえ」
 云われて、左門は、自分を見廻して見た。なるほど、痩せた肩を聳《そびや》かし、両手をお行儀よく膝の上へ置き、膝をちんまりと揃えて坐っていた。叱られた子供が、姉さんの小言を、かしこまって聞いている格好であった。左門は苦笑した。しかし左門としては、何も栞に遠慮して、そんな態度をとったのではなく、突然の栞の声に驚き、飛び退がった時にそういう姿勢をとり、それをこの時まで持ち続けて来たまでであった。
(それにしてもこの娘は、何んと朗らかで、無邪気なのであろう)
 左門は、体を寛《くつろ》げた。
(いい気持ちだ)
 左門は、心が豊かになり、和《なご》やかになるのを感じた。
「第一、このお家、妾のものでなく、あなた様のものでございますわ。あなた様がご主人様で、妾はお客様でございますわ。そのご主人様が、遠慮するということございませんわ」
 と栞は云って、膝の上で、長い袖を弄《もてあそ》んだ。紅色の勝った、友禅模様の袖は、いろいろの落花の積み重ねのように見え、それを弄んでいる娘の、白い、細い、柔らかい指は、その花の積み重ねを、出たりはいったりする、蚕かのように見えた。
「家とは?」
「紙帳のことですの」
「ははあ」
 と云ったが、左門は、(いいことを云ってくれた)と思った。(紙帳こそ、俺の家であり巣なのだからなあ)
 また左門はいい気持ちになった。そこで膝を崩し、手を懐中《ふところ》へ入れ、ノンビリとした姿勢となった。
「紙帳といえば、妾がお釣りしたのでございますの」
 栞は云いつづけた。
「妾、林を散歩して、ここまで参りましたところ、紙帳が落ちていたではございませんか……最初は、本当は、気味悪かったのでございますのよ。……でも、見ているうちに、釣りたくなりましたので、釣りましたところ、今度は、はいってみたくなりました。……はいりましたところ眠くなりました。そこで妾、眠ったのでございますわ……」
「ははあ」と左門は云ったが、さては紙帳は、あの夜、お浦によって、武蔵屋の庭から外へ運び出され、それから、何かの理由で――風にでも吹かれ、ないしは、お浦自身ここまで持って来て、棄てて立ち去ったのかもしれないと思った。
(どっちみち紙帳を、ここで取り戻すことが出来たのは幸福だった)
 二人はしばらく黙っていた。
 ふと、上の方で、ひそかな物音がした。
 栞は、顔を上向けた。紙帳の天井に、楓の葉のような影が二個映ってい、それが、ひそかな音を立てて、あちこちへ移動《うつ》っていた。小鳥の脚の影らしい。また二個数が増した。もう一羽、紙帳へ停まったらしい。四個《よっつ》の小鳥の脚の影は、やがて紛合《もつれあ》った。戯れているらしい。と、二個ずつ離れ、つづいて、意外に高い、でも優しい啼き声が響いて来た。
「テッポ、シチニオイテ、イツツブ、ニシュ」
 と、その声は聞こえた。
 とたんに、四個の脚の影は消えた。飛び去ったらしい。しかしやや離れたところから、同じ啼き声が聞こえて来た。
「頬白《ほおじろ》でございますわね」
 と栞は云って、眼を細め、左門の顔を見た。
「何んといって啼いたかご存知?」
「さあ」
「『鉄砲質に置いて、五粒二朱』――と、啼いたのですわ」
「ははあ」
「猟にあぶれた[#「あぶれた」に傍点]猟師《かりゅうど》が、鉄砲をかついで、山道を帰って来る時、高い木の梢で、ああ啼かれますと、猟師は憤《おこ》れて来るそうでございます」
「ふ、ふ」
 と、左門は、思わず、含み笑いをした。
「その筈でございますわ」と栞は云いつづけた。
「そのように不景気では、今に、鉄砲を質に置いて、五粒二朱借りるようになるぞよ、などと頬白にひやかされては、猟師としては、憤れて来ますわね」
「憤れますとも」
「でも、頬白は、普通、『一筆啓上仕る』と啼くのだそうでございます」
「物の啼き声は、聞きようによって、いろいろに取れますわい」

    愛すればこそ

「蛙が何んといって啼くかご存知?」
「さあ」
「久太という小博徒《こばくちうち》が、勝負に負けて、裸体にむかれて、野良路を帰って来ると、その前を、郷方見廻りの立派なお侍さんが二人、歩いて行かれましたそうで。……すると、田圃の中から、蛙が啼きかけましたそうで。……何んといって啼いたかご存知?」
「知るわけがござらぬ」
「『あんた方お歴々、あんた方お歴々』と啼いたそうでございます」
「そうも聞こえますなあ」
「久太が通ると、また、蛙は啼きかけたそうですが、何んといって啼いたかご存知?」
「知るわけはござらぬ」
「『裸体でオホホ』と啼いたそうでございます」
「なるほど、そうも聞きとれますなあ」
「久太は怒って、蛙を捕えて、地べたへ叩きつけましたそうで。……何んといって蛙が啼いて死んだかご存知?」
「知るわけはござらぬよ」
「『久太アー』と啼いて死んだそうでございます」
「あッはッはッ」と左門は、爆笑した。「『キューター』……あッはッはッ」
 爆笑してから、ハッと気がついた。
(俺は幾年ぶりで、気持ちよく、腹の底から、何んの蟠《わだかま》りもなく、笑っただろう?)
 そうして、彼の気持ちは、快く爆笑させてくれた栞に対して、感謝しなければならないようなものになっていた。
(妾、どうして今日は、こう何んでも、気安く思うことが云えるのだろう?)
 と、栞は栞で、自分ながらその事が、不思議なような気がした。(やはり、お父様のご病気がお癒りになったからだわ。……そうして、頼母様が、今日あたり、帰っておいでになるからだわ)
 ――それに相違なかった。それだから、心が喜悦に充ちてい、何んでも云え、何んでも受け入れることが出来、何んでもよい方へ解釈することが出来るのであった。
 また二人は、しばらく沈黙して、向かい合っていた。
 左門は、いつか、肘を枕にして横になった。
 蕾を持った春蘭が、顔の前に生えていて、葉の隙から栞の姿が、簾越《すだれご》しの女のように見えていた。栞は、顔を上向け、また、何か想いにふけっているようであった。華やかな半襟の合わさり目から、白い滑かな咽喉が覗き、その上に、ふくよかな円い顔が載っていて、咽喉の形が、象牙の撥《ばち》のように見えているのも、初々《ういうい》しかった。
 栞は笑った。頼母のことを思っての、「想い出し笑い」であった。
「栞殿」と、左門は、相手の心を探るように云った。
「そなた、誰かと恋し合っておられますな」
「ま、……どうして……」
 しかし栞の耳朶は紅を注した。
「様子でわかりまする」
「…………」
「あまりに浮き浮きとしておられる。あまりに幸福そうじゃ。……若い娘ごが、そのように成られること、恋以外にはござらぬ」
「…………」
「栞殿のような、美しい、賢い、無邪気な娘ごに恋される男、何者やら、果報者でござるよ」
「…………」
「相手の殿ごも、栞殿を愛しておられますかな?」

    讐敵紙帳の内外

「それはもう……」と、栞は思わず云って、また顔を染めた。
「その殿ご、心変りせねばよいが」
「なんの……決して……そのようなこと!」
「競争者でも出来て……」
「競争者でも……」
 と、栞の顔へ、はじめて不安の影が射した。
「さよう、競争者でも出来ましたら、男の心など、変るもので」
「いいえいいえ、そんなことがありますものか! ……でも、もしや、そんなことにでもなったら……死にまする! 妾は死にまする!」
「こう云っているうちにも、阿婆擦《あばず》れた女などが、そなたの恋人――いずれ、しおらしい、初心の栞殿の恋人ゆえ、同じ初心のしおらしい殿ごでござろうが、その殿ごへ、まとい付いて……」
 栞の顔色は次第に変り、眼が、地面の一所へ据えられた。
 その様子を見ると左門は、本来なれば、性来の悪魔性が――嗜虐《しぎゃく》性が、ムクムクと胸へ込み上げて来、この純情の処女《おとめ》の心を、嫉妬と猜疑《さいぎ》とで、穢してやろうという祈願《ねがい》に駆り立てられるのであったが、今は反対で、
(気の毒な! こんな純情の処女の心を苦しめてはいけない)と思った。そこで快活に笑い、
「いやいや栞殿、心配はご無用になされ、純情の殿ごなりや、どのような性悪る女であろうと、誘惑の手延ばされぬものでござる。……それにしても、栞殿のような娘ごに、そのようにまで想われる男、果報者の代表、うらやましい次第、何んとい
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