にし、この時ようやく這い寄り、足へ縋り付いたお浦を、縋らせたまま、蒼白の顔色をし、刀を構えて立った頼母を、引っ包んで討ち取ろうと、湾のように左右に開き、立ち向かったのであった。
「頼母様アーッ」とお浦は叫んだ。「妾ゆえに、お気の毒なこの憂き目! ……想われたあなた様の因果! さぞ妾が憎いでございましょう! ……一思いにその刀で、妾をお殺しくださりませ! ……あなた様に殺されましたら、本望の本望! 頼母様アーッ」
頼母は切歯し、
「この場に臨んで、何を繰り言! 放せ足を! ……一大事の場合、邪魔いたすな!」
足を上げて蹴り、蹴られて、紙帳の裾に転《まろ》び寄ったお浦を、帳中から手が出て、引き入れた。
瞬間、白刃が、十数本、頼母に降りかかった。
それを頼母は、左右前後に、切り、防ぎ、そうして退き、ジリジリと退き、松の木の幹に背中をもたせ刀を構え、大息を吐き、八方へ眼をくばり、
(俺は、これから、どうなるのだ?)
と思った。
この頼母の心境《こころ》は、地獄さながらであったが、帳中へ引き入れられたお浦の心境も、地獄さながらであった。
――ここは紙帳の中である。
お浦は、左門へ、むしゃぶりつこうとしていた。
「汝《おのれ》、左門ンーン」
それは、血を吐くようなお浦の声であった。
「汝のために、武蔵屋で、紙帳の中へ引き入れられ、気絶させられ、悩乱させられたばかりに、頼母様に差し上げようと思った天国様を川へおとし、そればかりか、五郎蔵に捕えられ、『俺を裏切り、頼母へ心中立てした憎い女! 嬲り殺しにしてくれる』と、昨日まで府中で責め折檻《せっかん》、今日はいよいよ息の根とめると、百姓家の納屋へ戸板でかつぎこまれ、……そこを嬉しや、頼母様に助けられ、ここまでは連れられ遁がれては来たが……汝、左門ンーン……汝とは何んの怨みもないこの身、部屋を取り違えたが粗忽《そこつ》といえば粗忽……そのような粗忽、いましめて、放してさえくだされたら、何んの間違いもなかったものを! ……汝の悪逆の所業から、それからそれと禍いを産み、頼母様を五郎蔵に怨ませ、アレアレあのように紙帳の外では、五郎蔵めに頼母様が! ……」
胸はあらわ、髪は崩れ、頸には、折檻された痕の青あざがある。――そういうお浦が、怨みと怒りで血走った眼を据え、食い入るように、下から、左門を睨み、地を這い、じりじりと進み、武者振りつこうとしているのであった。
純情の二人の女
左門は、右手に、抜いた関ノ孫六の刀を握り、それを、お浦へ差し付け、左手では、紙帳の裾をかかげ遁がれ出ようとする栞の帯を掴んでいた。
「お浦、事情を聞けばまことに気の毒、さぞ左門が憎いであろうぞ! が、今は甲斐ない繰り言! 過ぎ去った事じゃ! ……」
と云ったが、抜き身を地へ置くと、その手を頤の下へ支《か》い、眉根へ寄せたがために、藪睨みのようになって見える瞳《め》で、つくづくとお浦の顔を見詰め、
「以前《これまで》の拙者なりゃ、その方より紙帳へ近附いたからには憂き目を見たは自業自得と、突っ放すなれど、現在《いま》の拙者の心境《こころ》ではそれは出来ぬ。気の毒に思うぞ! 詫び申すぞ! ……さりながら一切は過ぎ去ったこと、繰り返しても甲斐はない! ……今後は贖罪《とくざい》あるばかりじゃ! ……お浦、そちのその重傷《おもで》では、生命取り止むること覚束《おぼつか》ないかもしれぬ。そこで云う、今生《こんじょう》唯一の希望《のぞみ》を申せ! ……左門、身に代えて叶えてとらせる!」
「希望※[#感嘆符疑問符、1−8−78] ……唯一の、今生の希望※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
と、お浦は、すでに天眼になりはじめた瞳、小鼻がにわかに落ちて、細く険しくなった鼻、刳《えぐ》られたように痩せ落ちた顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》や頬、そういう輪廓を、黒い焔のような乱髪で縁取《ふちど》り、さながら、般若《はんにゃ》の能面《おもて》を、黒ビロードで額縁したような顔を、ヒタと左門へ差し向けたが、
「おおそれなら、頼母様のお命を! オ、お助けくださりませ! ……五郎蔵の乾児大勢に、ああ取り囲まれましては、所詮助からぬあのお方のお命! ……お助けくださらば海山のご恩! ……あなた様への怨みも消えまする! ……左門様アーッ」
「左門様アーッ」
と、するとこの時、もがいて、ようやく、左門の手から遁がれた栞が叫んだ。
「妾からもお願いいたしまする! ……頼母様のお命お助けくださりませ! ……、聞けば頼母様、五郎蔵一味大勢の者に取り囲まれ、ご危難とか! ……おおおお、あの物音が、頼母様討とうの物音とか! ……掛け代えのない大切の頼母様、オ、お助けくださりませーッ」
乱れた衣裳、髻《もとどり》千切れた髪、蒼白な顔、嵐に揉まれる牡丹桜とでも云おうか、友禅の小袖の袖口からは、緋の襲着《したぎ》がこぼれ、半分《なかば》解けた帯の間からは、身悶えするごとに、鴇色《ときいろ》の帯揚げがはみ出し、髪へ掛けた鹿の子の布が、蝋細工のような耳朶のあたりで揺れている態《さま》など、傷ましく哀れではあったが、尚美しさ艶かしさを失わない女の姿であった。
「ナニ、掛け代えのない大切の頼母様?」
と、お浦は、はじめて栞へ眼をつけたが、
「汝《わりゃ》ア何者? ……見ればまだ小娘! ……それなのに、妾の、頼母様のことを! ……」
気も遠々に、次第に地面へ伏し沈もうとする体を、またも猛然と揺り起こし、しかし、立ち上がる気力はなく両手を地に突き、栞の方へお浦は這い寄るのであった。
「さては汝《おのれ》は、頼母様に、横恋慕をしてこのお浦から……」
栞も今は一生懸命、胸を反らせ、膝を揃え、膝の上へ両手を重ね、毅然とした態度となったが、
「横恋慕などとは穢らわしい、そなたこそ誰じゃ? そなたこそ横恋慕! ……妾はこの土地の郷士飯塚薪左衛門の娘栞! ……頼母様とは将来《ゆくすえ》を誓約《ちか》った仲! ……邪《よこし》まの恋などではござりませぬ! ……それを横恋慕などと! ……」
「吠《ほざ》くな小娘!」
と、お浦は、南国に住むという傘蛇《からかさへび》が、敵に襲いかかるように、ユラユラと背延びをし、両手を高く上げたが、
「命取られるまでに折檻《せっかん》され、嬲《なぶ》り殺しにかけられたお浦、それも頼母様のため! これが邪まの恋か! ……おおおお、これが邪まの恋か! ……恋? なんの! 恋なものか! おおおお、恋などという生やさしいものは、妾にとっては、遠い昔の物語! ……真実《まっとう》の人間に復活《かえ》ろうと、久しい間、男嫌いで通して来たものを! ……恋? それも邪まの恋? ……何んの何んの頼母様は、わたしにとっては恋以上のお方! ……救世主《すくいぬし》! ……おおおお、でも、この妾の心! ああやっぱり恋かしら? ……恋なら恋でままよ! その恋ひたむきにとげるまでよ! ……吠《ほざ》いたな小娘! 頼母様とは将来を誓約《ちか》った仲と! ……まことなりや、その仲裂かいで置こうか! ……汝《おのれ》を殺してエーッ」
と、バッと蔽いかかろうとした。
紙帳の外は修羅場
瞬間、白光が、二人の間を裁断《たちき》った。
地に置いてあった抜き身を取り上げ、左門が二人の間へ突き出したのであった。
「待て! ……さりながら、純情と純情! ……ハーッ」
と、太い息をした。
五郎蔵の贔屓《ひいき》を受けていながら、五郎蔵を裏切り天国の剣を持ち出し、頼母に渡そうとしたこと、邪まの所業《しわざ》には相違なかったが、生命をかけての頼母への執着ぶりから云えば、お浦の想い、純情といわずして何んだろう。
左門のような人間をして、腹の底から笑わせた栞の無邪気さ! その栞の頼母への恋が、純情であることはいうまでもなかった。
その純情と純情とが、狭い紙帳の中で、今や噛み合おうとしているのであった。
(俺には扱い兼ねる)
左門は太い息をしたのである。
「栞殿」
と、やがて左門は云った。
「拙者、先ほど、阿婆擦《あばず》れた女などが、そなたの恋人へ附きまとうやもしれずと申しましたな。……お浦こそその女子! ……しかし、そなたの、頼母殿を想う念力強ければ、お浦など、折伏《しゃくぶく》すること出来ましょう! ……弱ければ、折伏されるまでよ! ……お浦!」
と、お浦を、不愍《ふびん》そうに見詰め、
「そちの頼母殿への執着、浅間しいともいえれば不愍ともいえる! ……しかし思え! そちの命は助からぬやもしれぬ。死に際を潔うせよ! ……栞殿へ恋を譲れ! ……そこまでに強い想い、譲るは辛いであろうが、譲れば、かえってそちの煩悩、まず第一に救われるであろうぞ! ……栞殿も救われ、頼母殿ものう。……栞殿は無邪気な処女《おぼこ》、頼母殿を、荒《すさ》んだ仇し女などに取られるより、まだしも栞殿に譲った方がのう。……さりながら、女の世界での出来事は、男の世界からはうかがいしること出来ぬわい! そちたち委《まか》せ! ……おさらばじゃ!」
刀を引くと立ち上がり、紙帳の側面《かべ》へ身を寄せたが、
「二人ながら安心いたせ! 二人の希望を叶え、拙者、五郎蔵はじめ、五郎蔵の乾児どもを、斬って斬って斬りまくり、頼母殿の命はきっと救う! ……注意《こころ》いたせ!」
と、左門は訓《いまし》めるように云った。
「二人ながら紙帳を出るな! ……紙帳こそは拙者の家、わが城砦《とりで》、この中にそちたちいる限りは、拙者身をもって護ってとらせる! 出たが最後、拙者|関係《かかわ》らぬぞ!」
幾多の悲劇を経験した紙帳は、またも悲劇を見るのかというように、尚睨み合っている二人の女と、今や紙帳の裾に蹲居《うずくま》り、刀を例の逆ノ脇に構え、斬って出《い》ずべき機会を窺い、戸外《そと》の物音を聞きすましている左門とを蔽うていた。頼母によって斬られた五郎蔵の乾児たちの血が、新しくかかって、古い血の痕の上を、そうして左右を、新規に深紅に染め、それが、線を為《な》し、筋を為し、円を描き、方形を形成《かたちづく》り、流れ凝《こご》り、紙帳の面貌《おもて》は、いよいよ怪異を現わして来た。
が、紙帳の外は?
ここ紙帳の外は、修羅闘争の巷であった。
頼母は既に紙帳の側から離れ、ふたたび立ち木の幹へ背をあて、群がり寄せ、斬りかかろう斬りかかろうとする五郎蔵の乾児たちを睨み、自分もいつか受けた数ヵ所の負傷《きず》で、――斬った敵方の返り血で、全身|朱《あけ》に染まり、次第に迫る息を調え、だんだん衰える気力を励まし励まし、……
そういう頼母の眼に見えているのは、正面乾児たちの群の中に立ち、彼を睨んでいる松戸の五郎蔵の姿であった。
憎悪《にくしみ》に充ちた五郎蔵の眼がグッと据わり、厚い唇が開いたと見てとれた瞬間、怒号する声が聞こえて来た。
「憎いは頼母、親の敵に邂逅《めぐりあ》ったという、義によって助太刀してやったところ、恩を仇に、お浦めをそそのかし、天国の剣を持ち出させたとは何事! 息の根止めずに置かれようか! やア乾児ら、うろうろいたさず、頼母めを討ってとれ! ……おおおお、お浦め、紙帳の中へ引き入れられたまま、いまだに出ぬぞ! ……紙帳の中には左門がいる筈、その左門め、武蔵屋でも、同じ紙帳の中へ、お浦めを引き入れて……許されぬ左門! やア乾児ら、左門めを討ってとれ! ……典膳めの姿が見えぬぞ! 典膳めはどうした? ……俺の過去などと申して、あることないことを云い触らす痩せ浪人! 生かしては置けぬ!」
喚きちらし、地団駄を踏む五郎蔵の心境《こころ》も、苦しいものに相違なさそうであった。
「やあ汝ら手分けして典膳を探し出せ!」
声に応じて数人の乾児が、木立ちを潜って走って行く姿が見えた。
「やア松五郎!」と怒鳴る五郎蔵の声がまた響いた。「紙帳を窺え! 紙帳の中を!」
外光の中で見る紙帳の気味悪さ!
左門の任侠
今は中からは人声は聞こえず、周囲《まわり》の、
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