の五郎蔵一味が、まだ府中にいて、この身の現われるのを待ち、討ち取ろうとしているらしかったので、今日までは外出しなかったのである。
 左門には、あの夜以来、心にかかることがあった。紙帳を失ったことである。何物にも換えがたい大切の紙帳を!
 そう、紙帳は、左門にとっては、ちょうど、蝸牛《かたつむり》における殻のようなものであった。肉体の半分のようなものであった。その中で住み、眠り、考え、罪悪さえも犯した紙帳なのだから! 恋人のような離れ難いものと云ってもよかった。それに紙帳は、彼にとっては、一つの大きな目的の対象でもあった。頼母を殺し、その血を注ぎ、憤死された父上の妄執を晴らしてあげたい! その血を注ぐ対象が紙帳なのであるから。
 その紙帳を紛失した彼であった。淋しそうに、気抜けしたように歩いて行くのは、当然といってよかろう。
(あの夜紙帳が、独《ひと》りで歩いたのは、中にお浦がいて、紙帳から出ようとしたが出られず、もがきながら走ったからだ。それは、あの女の着ていた物が、次々に脱げて、地へ落ちたことで知れる)
 しかし、その後、紙帳やお浦はどうなったことか?
 それが解らないからこそ、左門は憂欝なのであった。
 林を縫って流れている小川があり、水が清らかだったので、底の礫《こいし》さえ透けて見えた。それを左門が跨いで越した時、水に映った自分の姿を見た。顔に精彩がなかった。
(家を喪った犬は、みすぼらしいものの代表のように云われているが、俺にとっては紙帳は家だ。それを失ったのだからなア)
 顔に精彩のないのも無理がないと思った。
(どうぞして紙帳を探し出したいものだ)
 彼は黙々と歩いて行った。
 それにしても、何故彼は、道了塚の方へ行くのであろう? たいした理由があるのではなく、数日前ここの林へ紙帳を釣って野宿したことがあり、それが懐かしかったのと、五郎蔵の乾児二人を斬り、身をかくしたところが林で、その林が道了塚の方へつづいていたので、それで道了塚の方へ足を運ぶまでであった。
 彼は、どうして五郎蔵の乾児二人が、自分の隠れている農家などへやって来たのか、解らなかった。
(やはり五郎蔵一味め、俺の行衛を探しているのだな)
 こう思うより仕方なかった。彼には五郎蔵の乾児たちが、筵《むしろ》をかけた戸板を担って、あの農家の納屋《なや》の方へ行ったことを知らなかった。それは、その一団の姿が、母屋の蔭になっていて、見えなかったからである。
(どっちみち油断はならない)
 こう思った。
 やがて彼は、記憶に残っている、かつての夜、紙帳を釣って寝た、道了塚近くの林へ来た。
 突然彼は足を止め、茫然として前方を見据えた。無数の血痕を附けた、紛れもない自分の紙帳が、林の中の空地に釣られてあるではないか。紙帳は、主人に邂逅《めぐりあ》ったのを喜ぶかのように、落葉樹や常磐木《ときわぎ》に包まれながら、左門の方へ、長方形の、長い方の面を向け、微風に、その面へ小皺を作り、笑った。
 左門は、紙帳が、どうしてこんなところへ来ているのか、誰が紙帳を釣ったのか? と、一瞬間不思議に思ったが、それよりも、恋していると云ってもよいほどに、探し求めていた巣を――紙帳を、発見したことの喜びに、肌に汗がにじむほどであった。
 彼は、何をおいても、紙帳の中へはいり、この平和を失った、イライラしている心持ちを鎮めたいと思った。
 彼は、声をさえ発し、紙帳へ走り寄った。それが生物《いきもの》であったならば、彼は紙帳を抱き締めたであろう。彼はやにわに紙帳の裾をかかげた。
「あッ」
 彼は驚きで胸を反らせた。

    新鮮な果実《このみ》

 紙帳の中に、彼の眼前に、彼以外の紙帳の主がいるではないか。そう、紙帳を箱とすれば、箱へ納まった京人形のように、一人の美しい娘が、謹ましくはあったが、充分|寛《くつろ》いだ姿で、安らかに、長々と寝て、眠っているではないか。
(無断で俺の巣へ入り込んだ女め!)
 憤怒《いかり》が勃然《ぼつぜん》と左門の胸へ燃え上がった。
(だが、女だ、綺麗な娘だ!)
 左門の、少し黒ずんで見えていた唇へ、赤味が注《さ》し、眼へ光が射した。
 左門は紙帳の中へはいった。彼は娘の顔をつくづくと見た。
(見覚えがある。飯塚薪左衛門の娘、栞だ!)
 事の意外に左門はまたも驚いた。
 過ぐる夜、飯塚家へ泊まった時、挨拶に出た栞という娘が、この紙帳の中に眠っていようとは!
(不思議だなア)
 左門は両眉の間へ皺を畳んだ。
(しかし、栞であろうと誰であろうと……)
 左門は、やがて地に腹這い、蛇が鎌首を持ち上げるように、首を上げ、頤の下へ両手を支《か》い、栞の姿をながめていた。栞は、そんなこととも知らず、片腕を枕にして、眠りつづけていた。友禅の襦袢の袖から、白い滑かな腕が覗いていたが、曲げた肘の附け根などは、円く軟らかく、薄桃色をなし、珠のようであった。
 この頃、五味左門が身を隠していた、例の農家の、街道に添った納屋には、陽がなんどり[#「なんどり」に傍点]と、長閑《のどか》にあたっていた。
 この辺の農家の誇りの一つとすることに、大きな納屋を持つということがあった。それは、鋤や鍬などの農具を、沢山に持っているということの証拠になるからであった。それでこの納屋も、土蔵ほどの大きさを持ってい、屋根に近い位置に、四角の窓を一つ穿《うが》っていた。その屋根に雀が停まっていて、羽づくろいし、その裾を、鼬《いたち》が、チョロチョロと徘徊していたが、これは赤黄色い土壌《つち》と、灰色の板とで作られているこの納屋を、大変詩的な存在にしていた。
 と、一人の武士が、刀の鞘を陽に照らし、自分の影を街道に落としながら、納屋の方へ歩いて来た。伊東頼母であった。頼母はあの夜、敵五味左門を取り逃がしたので、それを探し出し、敵《かな》わぬまでも勝負しようと、武蔵屋を出《い》で、府中をはじめ、近所のそちこちを、今日まで三日間さがし廻った。だが左門の行衛《ゆくえ》は知れなかった。そこで一旦、飯塚薪左衛門の屋敷へ帰ろうと、今この街道を歩いて来たのであった。飯塚家へ帰るということは、彼にとっては喜びであった。恋人の栞と逢うことであるから。過ぐる夜、あの屋敷の庭で、純情の処女、栞と、手を取り交わして以来、栞が、何んと烈しく、一本気に、頼母を愛し出したことか。その愛の烈しさに誘われて、頼母も、今は、燃えるように、栞を愛しているのであった。その栞と逢えるのだ! 頼母は幸福で胸が一杯であった。武蔵屋での苦闘と、三日間左門を探し廻った辛労とで、頼母は少し痩せて見えた。頤など細まり、張っていた肩など、心持ち落ちたように見えた。
「や、これは!」
 と、頼母は、納屋の前へさしかかり、何気なく窓を見上げた時、驚きの声をあげて足を止めた。窓にも陽があたっていて、明るかったが、納屋の内部は暗いと見え、窓の向こう側は闇であった。その闇を背後にして、明るい窓外に向き、一つの男の首級《なまくび》が、頼母の方へ顔を向けているではないか。陽のあたっている窓の枠を、黄金色《きんいろ》の額縁とすれば、窓の内部の闇は、黒一色に塗りつぶされた背景であり、そういう額の面に、男の首級《くび》一個《ひとつ》が、生白く描かれているといってよかった。首級《くび》は、乱れた髪を額へ懸け、眼を閉じ、無念そうに食いしばった口から幾筋も血を引いていた。
「首級だーッ」
 と、頼母は、思わず叫んだ。と、首級はユルユルと動き、一方へ廻り、すぐに頼母の方へ、ぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]を見せたが、やがて窓枠からだんだんに遠退き、間もなく闇に融けて消えてしまった。しかし、すぐに続いて、今度は女の首級《なまくび》が一個、ユルユルと闇から浮き出して来、窓へ近寄り、頼母の方へ正面を向けた。やはり眼を閉じ、口を食いしばり、額へ乱れた髪をかけていた。しかし、その首級《くび》もユルユルと廻り、頼母へぼんのくぼを見せ、やがて闇の中へ消えた。頼母は全身を強《こわ》ばらせ、両手を握りしめた。と、またも、窓へ、以前の男の首級があらわれた。
「典膳の首級だーッ」
 と、頼母は夢中で喚いた。そう、その首級は見覚えのある渋江典膳の首級であった。
(しかし典膳は、三日前の晩に、お浦のために殺されて、川の中へ落とされたではないか! 何んということだ! 何んという! ……)
 典膳の首級は、頼母にそう叫ばれると、閉じていた眼を開けた。血が白眼の部分を櫨《はぜ》の実のように赤く染めていた。だが、その典膳の首級は、例のようにユルユルと廻って、闇に消え、それに代わって、以前の女の首級が現われた。
「お浦だーッ」
 そう、その首級はお浦の首級であった。

    恩讐|卍巴《まんじどもえ》

 お浦の首級は、頼母の叫び声を聞くと、眼を開けようとして、瞼《まぶた》を痙攣させたが、開く間もなく、一方へ廻り、窓から遠退き、闇へ消えた。とたんに、軟らかい生物の体を、木刀などで打つような音がし、それに続いて悲鳴が聞こえたが、見よ! 窓を! 典膳の首級とお浦の首級とが、ぶつかり合い、噛み合いながら、キリキリ、キリキリと、眉間尺のように廻り出したではないか。
 頼母は、夢中で納屋の扉へ飛び付いた。
 刹那、納屋の中から、
「丁だ!」という声が聞こえ、それに応じるように、「半だ!」という声が響いた。
 頼母は納屋の扉を引き開け、内へ飛び込んだ。開けられた戸口から、外光が射し込み、闇であった納屋の内部を昼間に変えたが、頼母に見えた光景は、地獄絵であった。渋江典膳とお浦とが背後手《うしろで》に縛《くく》られ、高く梁《はり》に釣り下げられてい、その下に立った五郎蔵一家の用心棒の、望月角右衛門が、木刀で、男女《ふたり》を撲っているではないか。撲られる苦痛で、典膳とお浦とは身悶えし、身悶えするごとに、二人の体は、宙で、縒《よ》じれたり捻《ね》じれたりし、額や頤をぶっつけ合わせた。そういう二人の顔は、窓の高さに存在《あ》った。だから窓の外から見れば、二個《ふたつ》の首級が、噛み合い食い合いしているように見えるのであった。納屋の壁には、鋤だの鍬だの鎌だのの農具が立てかけてあり、地面には、馬盥《ばだらい》だの※[#「韋+鞴のつくり」、第3水準1−93−84]《ふいご》だの稲扱《いねこ》きだのが置いてあったが、そのずっと奥の方に、裸体《はだか》蝋燭が燃えており、それを囲繞《かこ》んで、六人の男が丁半《しょうぶ》を争っていた。五郎蔵の乾児どもであった。その横に立って、腕組みをし、勝負を見ているのは、これも用心棒の小林紋太郎で、その南京豆のような顔は、蝋燭の光で黄疸|病《やみ》のように見えていた。
 これらの輩《やから》は、戸のあく音を聞くと、一斉にそっちを見たが、
「染八か」「何をしていたんだ」「喜代三はどうした」「いい勝負がはじまっている」「仲間にはいりな」
 などと声をかけた。
 井戸の方へ水を飲みに行った二人の身内の一人が、帰って来たものと思ったらしい。しかし明るい戸口の外光《ひかり》を背負《しょ》って立っている男が、染八でもなく喜代三でもなく、武士だったので、乾児たちは一度に口を噤《つぐ》んでしまった。
 頼母に一番近く接していた角右衛門が、真っ先に侵入者の何者であるかを見てとった。
「わ、わりゃア伊東頼母!」
 と叫ぶと、持っていた樫の木刀を、真剣かのように構えた。しかしこの老獪な用心棒は、打ち込んで行く代わりに背後へ退き、粗壁《あらかべ》へ守宮《やもり》のように背中を張り付け、正面に、梁から、ダラリと人形芝居の人形のように下がり、尚グルグルと廻っている、典膳とお浦との体の横手から、恐《こわ》そうに頼母を見詰めた。
 乾児たちは角右衛門の声を聞くと、一斉に立ち上がった。蝋燭が仆れて消えた。
「いかにも伊東頼母!」
「探しているところだ!」
「いいところへ来やがった」
「たたんで[#「たたんで」に傍点]しまえ!」
「誘拐《かどわかし》め!」
「盗賊《ぬすっと》め!」
 乾児たちは口々に喚《わめ》きだした。
「親
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