活したことなども思い出されて来た。
(下総《しもうさ》の五味左衛門方を襲い、天国の剣と財宝とを奪い、さらに甲州の鴨屋を襲って、巨額の財宝を手に入れたのを最後として、全然《まったく》組を解散したっけ)
(その後、来栖勘兵衛は、故郷の松戸へ帰り、博徒の頭になった筈だ)
こんなことも思い出された。
(だが、何んの理由で、俺と勘兵衛とは、この道了塚で決闘したのだろう?)
決闘の現場の道了塚へ来て考えても、その理由ばかりは思い出されないのであった。
(わしの頭脳《あたま》はまだ快癒《なお》りきらないのかもしれない)
淋しくこう思った。
と、その時、何んたる怪異であろう! 坐っている道了塚の下から、大岩を貫き、銀の一本の線のような、恐怖と悲哀とを綯《な》い雑《ま》ぜにした男の声が、
「秘密は剖《あば》かない! 裏切りはしない! 助けてくれーッ」
と、聞こえて来たではないか。
「う、う、う!」
と薪左衛門は、呻き声をあげたが、やにわに天国の剣を引き抜き、春の白昼《まひる》に現われた、「声の妖怪《もののけ》」を切り払うかのように、頭上に振り、
「あの声! 聞き覚えがある! ……二十年前に聞いた声だ! ここで、この道了塚で! ……秘密はあの声にあるのだ! 決闘の秘密は! ……おおおお、それにしても、二十年前に聞いたあの声が、二十年後の今日聞こえて来るとは?」
一つの影が、碑を掠め、薪左衛門の肩へ斑《ふ》を置き、すぐ消えた。鳶が、地上にある鼠の死骸を目付け、それをくわえて、翔び上がったのであった。道了塚を巡って、酣《たけなわ》の春は、華麗な宴《うたげ》を展開《ひら》いていた。耕地には菜の花が、黄金の筵《むしろ》を敷き、灌漑用の水路には、水の銀箔が延べられてい、地平線を劃《かぎ》って点々と立っている村落からは、犬の吠え声と鶏の啼き声とが聞こえ、藁家の垣や庭には、木蓮や沈丁花《じんちょうげ》や海棠《かいどう》や李が咲いていたが、紗を張ったような霞の中では、ただ白く、ただ薄赤く、ただ薄黄色く見えるばかりであった。でも、それは、この季節らしい柔らかみを帯びた風景として、かえって美しく、万物を受胎に誘う春風の中に、もろもろの香気《におい》の籠っているのと共に、人の心を恍惚とさせた。それにも関わらず、薪左衛門ばかりは、ふたたび乱心に落ち入るかのように思われた。振り廻していた天国の剣を、今は額に押し当て、沈痛に肩を縮め、全身をガタガタ顫《ふる》わせた。
(声の秘密を解かなければならない! どうあろうと解かなければならない!)
その声はまたも岩の下から、いや、岩の下の地の底から、一本の銀の線かのように、土壌《つち》を貫き、岩を貫いて聞こえて来た。
「秘密は剖かない! 裏切りはしない! 助けてくれーッ」
(あの声は、渋江典膳の声ではない! しかし典膳と一緒に働いていた男の声だ!)
薪左衛門は呻いた。
栞の発見した物
この頃栞は、林の中を逍遙《さまよ》っていた。
父親の乱心が癒ったことと、恋人の頼母が、今日あたり帰って来るだろうという期待とで、彼女の心は喜悦《よろこび》と希望《のぞみ》とに燃えているのであった。
(頼母様といえば、あのお方とはじめてお逢いしたのは、道了様の塚の裾辺りだったっけ)
栞は、過ぐる日、気絶していた頼母を、この手で介抱して、蘇生させたことを思い出した。
(妾、あの方の命の恩人なのよ。……頼母様、妾を粗末にしてはいけないわ)
つい心の中で甘えたりした。
林の中は、光と影との織り物をなしていた。木々の隙を通って、射し込んでいる陽光《ひかり》は、地上へ、大小の、円や方形の、黄金色《こがねいろ》の光の斑を付け、そこへ萠え出ている、菫《すみれ》や土筆《つくし》や薺《なずな》の花を、細かい宝石のように輝かせ、その木洩《こも》れ陽《び》の通《かよ》い路《じ》の空間に、蟆子《ぶよ》や蜉蝣《かげろう》や蜂が飛んでいたが、それらの昆虫の翅や脚などをも輝かせて、いかにも楽しく躍動している「春の魂」のように見せた。
心に喜悦を持っている栞は、何を見ても楽しかった。
栗や柏や楢などが、その幹や枝に陽光を溜め、陽光の溜っている所だけが、生き生きと呼吸しているように見えるのも、蕾を沢山持った山吹が、卯木《うつぎ》と一緒に、小丘のように盛り上がってい、その裾に、栗色の兎が、長い耳を捻るように動かしながら、蹲居《うずくま》ってい、桜実《さくらんぼ》のような赤い眼で、栞の方を見ていたが、それも栞には嬉しくてならなかった。
栞は木々を縫って目的《あて》なく彷徨《さまよ》って行った。
一つの林が尽き、別の林へはいろうとする処に、木立ちのない小さい空地があり、そこまで来た時、
「あれ」と云って、栞は足を停めた。
その空地に、巨大な白蝶の死骸かのように、一張の紙帳が、ベッタリと地に、張り付いていたからである。
「紙帳だよ、……まあ紙帳!」
どうしてこんな林の中などに紙帳が落ちているのか、不思議でならなかったが、それと同時に、数日前、自分の屋敷へ泊まった五味左門と云う武士が、部屋へ紙帳を釣って寝、その中で、同宿の武士を殺傷したことを思い出した。
(その紙帳ではあるまいか?)
(まさか!)
と思い返したものの、気味が悪かったので、栞は立ち去ろうとした。しかし、紙帳とか蚊帳《かや》とかを見れば釣りたくなり、布団を見れば敷いてみたくなるのが女心で、栞も、その心に捉《とら》えられ、立ち去るどころか、怖々《こわごわ》ではあったが、あべこべに紙帳へ近寄った。紙帳には、泥や藁屑が附いていた。そうして血痕らしいものが附いていた。
(気味が悪いわ)と栞は、またも逃げ腰になったが、でも、やっぱり逃げられなかった。
短く切られてはいたが、紙帳には、四筋の釣り手がついていた。
いつか栞は、その釣り手を、木立ちにむすびつけていた。
間もなく紙帳は、栞の手によって、空地へ釣られ、ところどころ裂《さ》け目を持ったその紙帳は、一杯に春陽を受け、少し弛《だ》るそうに、裾を地に敷き、宙に浮いた。
(この中で寝たら、どんな気持ちするものかしら?)
この好奇心も、女心の一つであろう。
栞は、紙帳の中へはいろうとして、身をかがめ、その裾へ手をかけた。
しかし栞よ、その紙帳こそは、やはり、五味左門の紙帳なのであり、三日前の夜、風に飛ばされて、ここまで来たものであり、そうして、その中へはいったものは、男なら殺され、女なら、生命《いのち》より大切の……そういう紙帳だのに、栞よ、お前は、その中へはいろうとするのか?
そんなことを知る筈のない栞は、とうとう紙帳の中へはいった。
処女の体を呑んだ紙帳は、ほんのちょっとの間、サワサワと揺れたが、すぐに何事もなかったように静まり、その上を、眼白や頬白が、枝移りしようとして翔《か》けり、その影を、刹那刹那《せつなせつな》映した。
戸板の一団
ちょうどこの頃のことであるが、この林から一里ほど離れた地点《ところ》に、だだっ広い前庭を持った一構えの農家が立ってい、家鶏《にわとり》の雛《ひな》が十羽ばかり、親鶏の足の周囲を、欝金色《うこんいろ》の綿の珠が転がるかのように、めまぐるしく転がり廻っていた。と、筵をかけた戸板を担《にな》い、それを取り巻いた十人の男が、街道の方から走って来、庭の中へはいって来た。戸板から滴《しずく》が落ちて、日和《ひより》つづきで白く乾いている庭の礫《こいし》の上へ滴《したた》り、潰れた苺《いちご》のような色を作《な》した。
血だ!
「咽喉が渇いてたまらねえ。水だ水だ」
と喚いて、一人の男が、一団から離れ、母屋《おもや》と隠居家との間にある井戸の方へ走って行った。すると、母屋の縁側近くに集まって、餌をあさりはじめていた、例の家鶏の一群は、これに驚いたか、けたたましく啼き出し、この一団が侵入して来た時から、生け垣の隅で臆病らしく吠えつづけていた犬は、今は憤怒したように猛りたった。
「俺《おい》らも水だ」
と、云って、もう一人の男が、井戸の方へ走った。
そういう二人にはお構いなく、戸板を担った一団は、庭の外れ、街道に添って建ててある、大きな納屋の方へ走って行った。
農事がそろそろ忙しくなる季節であった。この家の人々は、おおかた野良へ出て行ったとみえて、子守娘《こもり》と、老婆とが、母屋の入り口に茣蓙を敷き、穀物の種を選《よ》り分けていたが、その一団を見ると、呆気にとられたように、眼を見合わせた。
咽喉が渇いてたまらねえ、水だ水だと喚いた最初の男が、井戸端まで行った時、井戸の背後の方に、藁葺きの屋根を持った、古い小さい隠居家が、破れ煤《ふす》ぶれた[#「煤《ふす》ぶれた」はママ]障子を陽に焙《あぶ》らせて立っていたが、その障子が、内側から細目に開き、一人の武士が、身を斜めに半身を現わし、蒼味がかった、幽鬼じみた顔を覗かせた。けたたましく啼きたてた家畜の声に、不審を打ったかららしい。
「わッ、わりゃア、五味左門!」
と、井戸端まで辿りついた男は喚いた。松戸の五郎蔵の乾児の、中盆の染八であった。
「野郎!」
と染八は脇差しへ手をかけた。遅かった。
この時、もう左門は、その独活《うど》の皮を剥いたように白い足で、縁板《えん》を踏み、地へ下り、染八の面前へまで殺到して来ていた。
「わッ」
染八の肩から、こう蹴鞠《けまり》の※[#「毬」の「求」に代えて「鞠のつくり」、第4水準2−78−13]《まり》のような物体《もの》が、宙へ飛びあがり、それを追って、深紅の布が一筋、ノシ上がった。切り口から吹き上がった血であった。染八の首級《くび》は、碇綱《いかりづな》のように下がっている撥《は》ね釣瓶《つるべ》の縄に添い、落ちて来たが、地面へ届かない以前《まえ》に消えてしまった。年月と腐蝕《むしくい》とのためにボロボロになっている井桁を通し、井戸の中へ落ちたのであった。
「タ、誰《たれ》か、来てくれーッ」
染八の後を追って、これも水を飲みに来た壺振りの喜代三は、染八の死骸が、片手を脇差しの柄へかけたまま、自分の前へ転がって来たのに躓《つまず》き、夢中で両手を上げて、そう叫んだ。しかし誰も来ない以前《まえ》に、左門の刀が、胴から反対側の脇下まで斬っていた。死骸となって斃れた喜代三の傷口から、大量の血が流れ出、地に溜り、その中で蟻が右往左往した。啓蟄《あなをで》て間のない小蛇が、井戸端の湿地《しめじ》に、灰白い紐のように延びていたが、草履を飛ばせ、跣足《はだし》となり、白い蹠《あしうら》をあらわしている死骸の染八の、その蹠の方へ這い寄って行った。そうしてその、小蛇が、染八の足首へ搦み付いた頃には、五味左門は、道了塚の方へ続いている林の一つへ、その長身を没していた。
彼は道了塚の方へ歩いて行くのであった。
悩みの殺人鬼
懐手《ふところで》をし、少し俯向《うつむ》き、ゆるゆると歩いて行く左門の姿は、たった今、人を殺した男などとは思われないほど、冷静であったが、思いなしか、淋しそうではあった。顔色もいくらか蒼味を帯びていた。林の中はひっそりとしていて、小鳥の啼き声ばかりが、頭上から、左右から聞こえて来た。山鳩が幾羽か、野の方から林の中へ翔《か》け込んで来たが、人間の姿を見て驚いたように、一斉に棹のように舞い立ち、木々の枝へ停まった。
木々を巡り、藪を避《よ》け、左門は、道了塚の方へ歩いて行く。
それにしても、どうして彼は、農家の隠居家などにいたのであろう? 何んでもなかった、三日前の夜、府中の武蔵屋で、ああいう騒動を惹《ひ》き起こしたが、切り抜けて遁がれた。遁がれたものの、伊東頼母を、返り討ちにすることが出来なかったことが残念であった。
(いずれは彼奴《きゃつ》も、この左門を討とうと、この界隈を探し廻っていることであろう、そこを狙って討ち取ってやろう)
こう思い、あの農家に頼み込み、しばらく身を隠して貰っていたのであった。出かけて行って、頼母の居場所を探りたくはあったが、松戸
前へ
次へ
全20ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング