かし事情が事情だったので、怒りも、笑いも出来なかった。
更けて行く夜は、次第に寒くなって来た。老人をいつまでも捨てておくことは出来なかった。二人は、躄車《くるま》を押して、屋敷の方へ行くことにし、頼母は、まず、草に捨ててある刀を拾い取り、老人の背の鞘へ差してやった。それから躄車を押しにかかった。
「勿体《もったい》のうございます」
栞が周章《あわ》てて止めた。手が触れ合った。
「あっ」
栞の声が情熱をもって響いた。
「ああ」
思春期の処女《おとめ》というものは、男性《おとこ》のわずかな行動によって、衝動を受けるものであり、そうしてその処女が、愛と良識とに恵まれている者であったら、衝動を受けた瞬間、相手の男性の善悪を、直観的に識別《みわ》け、その瞬間に、将来を托すべき良人《おっと》を――恋人を、認識《みとめ》るものである。狂人の、孤独の父親に仕え、化物《ばけもの》屋敷のような廃《すた》れた屋敷に住み、荒らくれた浪人者ばかりに接していた、無垢《むく》純情の栞が、今宵はじめて、名玉のように美しく清い、若い武士と、不幸な一家のことについて語り合ったあげく、偶然手を触れ合ったのであった。
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