悲憤し、自宅へ帰るや、紙帳の中で屠腹《とふく》し、腸を紙帳へ叩き付けて死んだ。しかるに左衛門には、左門という忰があって、「父上を自害させたのは忠右衛門である」と云い、遊学先の江戸から馳せ帰り、一夜、忠右衛門を往来《みち》に要して討ち取り、行衛《ゆくえ》を眩《くら》ました。こうなってみると、伊東家においても、安閑としてはいられなくなり、
「頼母、そち、左門を探し出し、討って取り、父上の妄執を晴らせ」
 ということになり、さてこそ頼母は、復讐の旅へ出たのであったが、困ったことには、彼は討って取るべき、左門という人間を知らなかった。と云うのは、この時代の風習として、家庭《いえ》にいないで、江戸へ出、学問に精進していたからである。そう、頼母も左門も、幼少の頃から江戸に遊学し、頼母は、宣長の門人伴信友の門に入り、国学を修め、左門は、平田塾に入って、同じく国学を究める傍《かたわ》ら、戸ヶ崎熊太郎の道場に通い、神道無念流を学び、二人は互いにその面影を知らないのであった。
 キリキリという、轍の軋るような音を聞き、頼母は、枕から顔を放し、耳を聳《そばだ》てた。
(何んの音だろう?)
 音は、中庭まで来
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