の他にはない)
処女の一本気が、恋となった時、行きつくところはここであった。まして栞のように、発狂している父親を看病し、老いたる僕《しもべ》や乳母《うば》や、荒々しい旅廻りの寄食浪人などばかりに囲繞《とりま》かれ、陰欝な屋敷に育って来た者は、型の変った箱入り娘というべきであり、箱入り娘は、最初にぶつかって来た異性に、全生涯を委《ま》かそうとするものであるにおいてをや。殊に相手が、若く、凜々しく、頼り甲斐のある、無双の美丈夫であるにおいてをや。
(頼母様、早くお帰りなされてくださりませ)
その頼母は、自分たち飯塚家に、わけても父薪左衛門に仇《あだ》をする、松戸の五郎蔵という博徒の親分が、何故父親に仇をするのか、五郎蔵の本当の素姓は何か? それを、自分たちのために探り知るべく、出かけて行ってくれたのであった。
(頼母様、お会いしとうございます。早くお帰りなされてくださいまし)
五郎蔵の素姓も、五郎蔵が、何故父親に仇をするのかをも、頼母の口から聞きたくはあったが、しかしそれよりも、狂わしいまでに恋している処女《おとめ》は、ただひたむきに、恋人の顔が見たいのであった。
髪川から、灌漑用に引かれている堰《せき》の縁《へり》には、菫《すみれ》や、紫雲英《げんげ》や、碇草《いかりそう》やが、精巧な織り物を展《の》べたように咲いてい、水面には、水馬《みずすまし》が、小皺のような波紋を作って泳いでい、底の泥には、泥鰌《どじょう》の這った痕が、柔らかい紐のように付いていた。ことごとく春《はる》酣《たけなわ》の景色であった。
「おや」と呟いて、栞は、堰の縁へ、赤緒の草履の足を止めた。水面に、水藻をまとい、目高の群に囲まれながら、天国と箱書きのある刀箱が、浮いていたからである。
名刀天国
(天国といえば、気を狂わせておられるお父様が、狂気の中でも、何彼と仰せられておられた名剣の筈だが……)
それが、こんな堰に浮いているとは不思議だと、栞は、しばらく刀箱を見ていたが、やがて蹲《しゃが》むと、刀箱《それ》を引き上げた。箱からしたたるビードロのような滴《しずく》を切り、彼女は、両手で刀箱を支え、じっと見入った。ゆかしい古代紫の絹の打ち紐で、箱は結《ゆわ》えられていた。箱は、柾《まさ》の細かい、桐の老木で作ったものであり、天国と書かれた書体も、墨色も、古く雅《みやび》ていた。
(ともかくもお父様へお目にかけて……)
その裾の辺りへ去年の枯れ草を茂らせ、ところどころ壁土を落とした築地《ついじ》。鋲は錆び、瓦は破損《いた》み、久しく開けないために、扉に干割《ひわ》れの見える大門。――こういうものに囲まれた彼女の屋敷は、廃屋の見本のようなものであったが、栞は、その大門の横の潜門《くぐり》をくぐって屋敷の中へはいって行った。
その栞が、しばらく経った時には屋敷の奥の、古びた十畳ばかりの部屋に、父、薪左衛門と向かいあって坐っていた。
栞は、膝の上の刀箱を、父の方へ差し出したが、
「ただ今お話し申し上げました、堰の水に浮いておりました刀箱は、これでございます。ご覧なさりませ、天国と、箱書きしてございます」
と云い、緞子《どんす》の厚い座布団の上へ坐り、蒔絵《まきえ》の脇息へ倚っている、父親の顔を見た。
薪左衛門は、その卯の花のように白い総髪を、肩の上でユサリと揺り、おちつきなく、キョトキョト動く眼を、グッと据えたが、やっと咽喉から押し出したような嗄れ声で、
「ナニ、天国※[#感嘆符疑問符、1−8−78] ……まことか! ……まことなりやお手柄、我ら助かる! 身の面目になる!」
と云ったが、突然、棚から陶器《すえもの》が転げ落ちるような声で笑い出し、
「贋物《にせもの》であろう、贋物であろう、贋物の天国、鑑定してやろうぞ!」
と、鉤のように曲がっている左右の指で、ムズと箱を掴んだ。紐が解かれ、蓋が開けられた。箱の底に沈んでいたのは、古錦襴の袋に入れられた白鞘の剣であった。やがて鞘は払われ、刀身があらわれた。
薪左衛門は、狂人ながら、さすがは武士、白木の柄を両手に持ち、柄頭を丹田《たんでん》へ付け、鉾子《ぼうし》先を、斜《はす》に、両眼の間、ずっと彼方《むこう》に立て、ジッと刀身を見詰めた。立派であった。
それにしても、この奥まった部屋の暗いことは! 年中陽の光が射さないからであった。それで、この部屋にあって、鮮明《あざやか》に見えているものといえば、例の、卯の花のように白い薪左衛門の頭髪《かみ》と、化粧を施さないでも、天性雪のように白い、栞の顔ばかりであった。
いや、もう一つあった。薪左衛門によって保持《たも》たれている天国の剣であった。
おお、この「持つ人の善悪に関わらず、持つ人に福徳を与う」とまで、云い伝えられている、日本最
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