情も知らない奴! ……そっちがその気なら、こっちもこっち、彼奴の素姓を発《あば》き、その筋へ訴え出てやろう。即座に縛り首だ! 五郎蔵め、思い知るがいい! ……お浦もお浦だ、女の分際で、色仕掛けで俺を騙《たばか》り、殺そうとは! どうともして引っ捕らえ、嬲《なぶ》り殺しにしてやらなけりゃア!)
川から上がりたい、水から出たいと、彼は縋っている手に力をこめ、岩を這い上がろうとした。しかし、腰から下を浸している水の、何んと粘っこく、黐《もち》かのように感じられることか! どうにも水切りすることが出来ないのであった。
と、その時、頭上から、土塊《つちくれ》と一緒に、何物か崖を辷《すべ》って落ちて来、岩に当たり、幽《かす》かな音を立て、水へ落ちた。
典膳は、水面を見た。細い長い木箱《はこ》が、月光で銀箔のように光っている水に浮いて、二、三度漂い廻ったが、やがて下流の方へ流れて行った。
典膳は、崖の上を振り仰いだ。
生々《なまなま》と白く、肥えて円い、女の腕が、長く延びて差し出されてい、指が、何かを求めるように、閉じたり開いたりしていた。
「あ」
と、典膳は、思わず声を上げた。意外だったからである。しかし、次の瞬間には、誰か、女が、この身を助けよう、引き上げようとして、手を差し出してくれたのだと思った。
「お助けくださいまするか、忝《かたじ》けのうござる。生々世々《しょうじょうよよ》、ご恩に着まするぞ」
と、典膳は、咽喉《のど》にこびり[#「こびり」に傍点]ついて容易に出ない声を絞って云い、一気に勇気を出し、川から岩の上へ這い上がった。
栞の恋心
腕の主はいうまでもなくお浦で、お浦は、この期《ご》になっても、恋しい男の頼母へ渡そうと、抱えていた天国の刀箱を、不覚にも川の中へ落としたので驚き、延ばしている腕を一層延ばし、思わず指を蠢《うごめ》かしたのであった。その時彼女は、崖下から、人声らしいものの、聞こえて来るのを聞いた。彼女は狂喜し、地を摺って進み、肩と胸とを、崖縁からはみ出させ、崩れた髪で、額縁のように包んだ顔を覗かせ、崖下を見下ろし、
「もし、どなたかおいででございますか。刀箱を落としましてございます。その辺にありはしますまいか? ……あ、水が飲みたい! 水を汲んでくださいまし」
典膳は、この時、もう岩の上に坐りこんでいたが、女の声を聞いても、耳に入れようとはせず、ただ、女の腕に縋り、それを手頼《たよ》りに、崖の上へあがろうと、ひしと女の手を握った。
「お願いでございます。この手を、グッとお引きくださいまし。それを力に、私、崖を上がるでございましょう。ご女中、さ、グッとこの手を……」
お浦は、突然手を握られて、ハッとしたが、咽喉の渇きがいよいよ烈しくなって来たので、握られた手を振り放そうとはせず、
「水を! まず、水を! ……その後にお力になりましょう。手をお引きいたすでございましょう。……おお、水を!」
この二人を照らしているものは、練絹《ねりぎぬ》で包んだような、朧《おぼ》ろの月であった。
典膳は、やっと、ヒョロヒョロと立ち上がった。お浦の体は、いよいよ崖の方へはみ出した。
二人の顔はヒタと会った。
「…‥……」
「…………」
鵜烏《うがらす》が、川面を斜《はす》に翔けながら、啼き声を零《こぼ》した。
こういう事件があってから三日の日が経った。
その三日目の朝、飯塚薪左衛門の娘の栞《しおり》は、屋敷を出て、郊外を彷徨《さまよ》った。さまよいながらも彼女の眼は、府中の方ばかりを眺めていた。連翹《れんぎょう》と李《すもも》の花で囲まれた農家や、その裾を丈低い桃の花木で飾った丘や、朝陽を受けて薄瑪瑙色《うすめのういろ》に輝いている野川や、鶯菜《うぐいすな》や大根の葉に緑濃く彩色《いろど》られている畑などの彼方《あなた》に、一里の距離《へだたり》を置いて、府中の宿が、その黒っぽい家並みを浮き出させていた。
(今日あたり頼母様にはお帰りあそばすかもしれない)
(いいえ、頼母様、是非お帰りあそばしてくださいまし)
山水のように澄んでいる眼には、愛情の熱が燃え、柘榴《ざくろ》の蕾《つぼみ》のように、謹ましく紅い唇には、思慕の艶が光り、肌理《きめ》細かに、蒼いまでに白い皮膚には、憧憬《あこがれ》の光沢《つや》さえ付き、恋を知った処女《おとめ》栞の、おお何んとこの三日の間に、美しさを増し、なまめかしさを加えたことだろう! 彼女は過ぐる夜、屋敷の中庭で、頼母と会って以来、それまで、春をしらずに堅く閉ざしていた花の蕾が、一時に花弁《はなびら》を開き、色や馨《かお》りを悩ましいまでに発散《はな》すように、栞も、恋心を解放《はな》し、にわかに美しさを加えたのであった。
(妾《わたし》の良人《おっと》は頼母様
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