真っ先に進んでいた乾児の一人が、左右へ手を開き、持っていた刀を、氷柱《つらら》のように落とし、反《の》けざまに斃れた。
蜘蛛の姿は消えていた。
その蜘蛛が、しばらく経って姿をあらわしたのは、武蔵屋から数町離れた、瀬の速い川の岸であった。その岸を紙帳蜘蛛は、よろめきよろめき、喘ぎ喘ぎ、這っていた。でも、とうとう疲労《つか》れきったのであろう、四足を縮め、胴体に深い皺《しわ》を作り、ベタベタと地へ腹這った。円く高く盛り上がっていた背も撓《たわ》み、全体の相が角張り、蜘蛛というより、やはり、一張りの紙帳が、地面へ捨てられたような姿となった。川面を渡って、烈しく風が吹くからであったが、紙帳は、痙攣《けいれん》を起こしたかのように、顫《ふる》えつづけた。と、不意に紙帳は寝返りを打った。風が、その内部《なか》へ吹き込んだため、紙帳が一方へ傾き、ワングリと口を開けたのである。忽然、紙帳は、一間ほど舞い上がった。もうそれは蜘蛛ではなく、紙鳶《たこ》であった。巨大な、白地に斑点を持った紙鳶は、蒼々と月の光の漲《みなぎ》っている空を飛んで、三間ほどの彼方《むこう》へ落ちた。でも、また、すぐに、川風に煽られ、舞い上がり、藪や、小丘や、森や、林の点綴《つづ》られている、そうして、麦畑や野菜畑が打ち続いている平野の方へ、飛んで行った。
怨恨上と下
最初、紙帳の舞い上がった地面に、一人の女が仆れていた。お浦であった。水色の布《きぬ》を腰に纒っているばかりの彼女は、水から上がった人魚のようであった。
彼女は疲労《つか》れ果てていた。左門によって気絶させられたところ、頼母に踏まれて正気づいた、そこで彼女は夢中で遁がれようとした。が、彼女を蔽うている紙帳が、彼女にまつわり、中から出ることが出来なかった。冷静に考えて、行動したならば、紙帳から脱出《のがれだ》すことなど、何んでもなかったのであろうが、次から次と――部屋の間違い、気絶、斬り合いの叫喚《さけび》、次から次と起こって来た事件のため、さすがの彼女も心を顛倒《てんとう》させていた。そのため、紙帳を冠ったまま、無二無三に逃げ廻ったのである。体をもがくにつれて、帯や衣裳は脱げて落ちた。
藻屑《もくず》のように振り乱した髪を背に懸け、長い頸《うなじ》を延びるだけ延ばし、円い肩から、豊かな背の肉を、弓形にくねらせ、片頬を地面へくっ付けたまま、今にも呼吸が切れそうなほどにも、烈しく喘いでいるのであった。
(咽喉《のど》が乾く! 水が飲みたい!)
彼女はこればかりを思っていた。
(川があるらしい、水の音がする)
この時までも、小脇に抱いていた天国の刀箱を、依然小脇に抱いたままで、彼女は川縁の方へ這って行った。
一方は宿の家並みで、雨戸をとざした暗い家々が、数町の彼方《あなた》に立ち並んでおり、反対側は髪川で、速い瀬が、月の光を砕いて、銀箔を敷いたように駛《はし》ってい、その対岸に、今を盛りの桜の老樹が、並木をなして立ち並んでい、烈しい風に、吹雪のように花を散らし、花は、川を渡り、お浦の肉体の上へまで降って来た。そうして、その桜並木の遙か彼方《むこう》の、斜面をなしている丘の上の、諏訪神社の辺りでは、火祭りの松明《たいまつ》の火が、数百も列をなし、蜒《うね》り、渦巻き、揉みに揉んでいるのが、火龍が荒れまわっているかのように見えた。
お浦は、やっと川縁まで這い寄った。彼女は、崖の縁を越して、前の方へ腕を延ばした。すぐそこに川が流れているものと思ったかららしい。
(水が飲みたい、水を!)
しかし川は、彼女のいる川縁から、一丈ばかり下の方を流れていた。そうして、川縁から川までの崖は、中窪みに窪んでい、その真下は岩組であった。
その岩組の間に挾まり、腰から下を水に浸し、両手で岩に取り縋り、半死半生になっている男があった。渋江典膳であった。
彼は、この髪川の上流、竹藪の側で、お浦のため短刀で刺された上、川の中へ落とされた。女の力で刺したのと、衣裳の上からだったのとで、傷は浅かった。しかし、川へ落ちた時、後脳を打ち、気絶した。でも、気絶したのは、典膳にとっては幸運だった。水を飲まなかった。その典膳は、ここまで流されて来、ここの岩組の間に挾まり、長い間浮いているうちに蘇生した。蘇生はしたが、衰弱しきっている彼は、川から這い上がることさえ出来なかった。助けを呼ぶにも、声さえ出なかった。彼はただ、岩に取り縋っているだけで精一杯であった。
彼の心は、五郎蔵とお浦とに対する、怒りと怨みとで一杯であった。
(彼奴《きゃつ》ら二人に復讐するためばかりにも、生き抜いてやらなけりゃア)
こう思っているのであった。
(昔の同志、同じ浪人組の仲間を、頭分たる彼奴が、女を使って殺そうとしたとは! 卑怯な奴、義理も人
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