士を追って走って来、自分たちの姿を見るや、刀を背後《うしろ》へ隠して下げ、右腕を左胴まで曲げて柄を握り、右足を踏み出した異様な構えで、全身から殺気を迸《ほとばし》らせながら、しかも寂然と静まり返って立った姿を見ると、容易ならない相手だと思い、いかさま、人など、平気で幾人でも殺す奴だろうと思った。
「野郎ども」と五郎蔵は、乾児たちに向かって怒鳴った。「あの三ピンを、引っ包《くる》んで膾《なます》に刻んでしまえ! しかし殺しちゃアいけねえ。止どめはお若衆に刺させろ! やれ!」
声に応じて乾児たちは、一本の杭を目差して、黒い潮が、四方から押し寄せて行くように、左門を目掛け、殺到した。
黒い潮が、渦巻き、沸《わ》き立つように見えた。飛沫《しぶき》が、水銀のように四方へ散った。――白刃が前後左右に閃めくのであった。数声悲鳴が起こった。渦潮は崩れ、一勢に引いた。杭は、わずかにその位置を変えたばかりで、同じ姿勢で立ってい、その前の地面に、三個《みっつ》の死骸が――波の引いた海上に、小さい黒い岩が残ったかのように、転がっていた。左門に斬られた五郎蔵の乾児たちであった。
子供を産む妖怪蜘蛛
五郎蔵は地団駄を踏み、いつか抜いた長脇差しを振り冠り、左門へ走りかかったが、にわかに足を止め、離座敷《はなれ》の方を眺めると、
「蜘蛛《くも》が! 大蜘蛛が!」
と喚き、脇差しをダラリと下げてしまった。
畳数枚にもあたる巨大な白蜘蛛が、暗い洞窟の中から這い出すように、今、離座敷《はなれ》の、左門の部屋から、縁側の方へ這い出しつつあった。背を高く円く持ち上げ、四本の足を引き摺るように動かし、やや角ばって見える胴体を、縦に横に動かし――だから、太い、深い皺を全身に作り、それをウネウネと動かし、妖怪《ばけもの》蜘蛛は、やがて縁から庭へ下りた。と、離座敷が作っている地上の陰影《かげ》から、蜘蛛は、月の光の中へ出た。蜘蛛の白い体に、無数に附着《つ》いてる斑点《まだら》は、五味左衛門の腸《はらわた》によって印《つ》けられた血の痕であり、その後、左門によって、幾人かの人間が斬られ、その血が飛び散って出来た斑点でもあった。そうして、この巨大な妖怪蜘蛛は、紙帳なのであった。では、四筋の釣り手を切られ、さっきまで、部屋の中に、ベッタリと伏し沈んでいた紙帳が、生命《いのち》を得、自然と動き出し、歩き出して来たのであろうか? 幾人かの男女が、その内外で、斬られ、殺されて、はずかしめられ、怨みの籠っている紙帳である、それくらいの怪異は現わすかもしれない。
庭を歩いて行く紙帳蜘蛛は、やがて疲労《つか》れたかのように、背を低めて地へ伏した。しかしすぐに立ち上がった。背が高く盛り上がった。と、それに引き絞られて、紙帳の四側面が内側へ窪み、切られ残りの釣り手の紐《ひも》を持った四つの角が、そのためかえって細まり、さながら四本の足かのようになった。窪んだ箇所は黒い陰影を作り、隆起している角は骨のように白く見えた。紙帳蜘蛛は歩いて行く。と、蜘蛛は、地面へ、子供を産み落とした。彼が地面へ伏し沈み、やがて立って歩き出したその後へ、長い、巾の小広い、爬虫類を――蛇《くちなわ》を産み落としたのである。しかしそれは、黒繻子《くろじゅす》と、紫縮緬とを腹合わせにした、女帯であった。女帯は、地上に、とぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻き尻尾《しっぽ》にあたる辺を裏返し、その紫の縮緬の腹を見せていた。蜘蛛は、自分の影法師を地に敷きながら、庭を宛《あて》なく彷徨《さまよ》って行った。と、また子供を産み落とした。紅裏をつけた、藍の小弁慶の、女物の小袖であった。蜘蛛は、庭の左手の方へ、這って行った。
やがて、母屋と離座敷《はなれ》との間の通路《みち》から、この旅籠《はたご》、武蔵屋の構外《そと》へ出ようとした。そうしてまたそこで、地上へ、血溜りのような物を――胴抜きの緋の長襦袢を産み落とした。
三個の死骸を間に挾み、左門と向かい合い、隙があったら斬り込もうと、刀を構えていた頼母も、その背後に、後見でもするように、引き添っていた五郎蔵も、刀を逆ノ脇に構え、頼母と向かい合っていた左門も、その左門を遠巻きにしていた五郎蔵の乾児たちも、そうして、この中庭の騒動に眼を覚まし、母屋の縁や、庭の隅などに集まっていた、無数の泊まり客や、旅籠の婢《おんな》や番頭たちは、この、紙帳蜘蛛の怪異に胆を奪われ、咳一つ立てず、手足を強張《こわば》らせ、呼吸《いき》を呑んでいた。不意に、左門の口から、呻くような声が迸ったかと思うと、紙帳を追って走り出した。
「遁《の》がすな!」という、五郎蔵の、烈しい声が響いた。瞬間に、乾児たちが、再度、四方から、左門へ斬りかかって行く姿が見えた。しかし左門が振り返りざま、宙へ刀を揮うや、
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