古の刀匠――大宝年中、大和《やまと》に住していた天国の作の、二尺三寸の刀身の、何んと、部屋の暗さの中に、煌々《こうこう》たる光を放していることか! その刀身の姿は細く、肌は板目で、女性を連想《おも》わせるほどに優美であり、錵《にえ》多く、小乱れのだれ[#「だれ」に傍点]刃も見えていた。そうして、切っ先から、四寸ほど下がった辺《あた》りから、両刃《もろは》になっていた。何より心を搏たれることは、それが兇器の剣でありながら、微塵《みじん》も殺伐の気のないことで、剣というよりも、名玉を剣の形に延べた、気品の高い、匂うばかりに美しい、一つの物像《もののかたち》といわなければならないことであった。
「まあ」と、栞は、思わず感嘆の声を上げ、水仙の茎のような、白い細い頸《うなじ》を差し延べ、眼を見張り、刀身を見詰めた。
 それにも増して、刀身へ穴でも穿《あ》けるかのように、その刀身を見詰めているのは、燠《おき》のように熱を持った薪左衛門の眼であった。
 薪左衛門も栞も、時の経つのを忘れているようであった。どこにいるのかも忘れているようであった。
 人は往々にして、真の驚異や、真の感激や、真の美意識に遭遇《ぶつか》った時、時間《とき》と空間《ところ》とを忘却《わす》れるものであるが、この時の二人がまさにそれであった。

    名刀の威徳

「栞や」と、不意に、薪左衛門は、優しい穏《おだや》かな声で云った。
「これは、天国の剣に相違ないよ。私には見覚えがある。遠い昔に――二十年もの昔でもあろうか、五味左衛門という者の屋敷から、天国の剣を強奪……いやナニ、頂戴したことがあるが、それがこの剣なのだよ。……ゆえあってその天国の剣は、今まで行衛不明となり、同志、来栖勘兵衛からは……いやナニ、誰でもよい、同志の一人からは、わしがその剣を隠匿したように誣《し》いられたが……それにしても、栞や、よくそなた、この剣を目付け出してくれたのう」
 その云い方は、全然、正気の人間の云い方であり、その声音《こわね》は、これも正気の人間の、五音の調った、清々《すがすが》しい声音であった。
「まあお父様!」と、栞は叫ぶように云い、父親が、正気に返ったらしいのに狂喜し、のめるように膝で進み、薪左衛門の膝へ取り縋った。
「そのお顔は! そのお声は! ……おおおお、お父様、すっかり正気の人間に! ……」
 いかさま、ほんのさっきまでは、薪左衛門の顔は、狂人特有の、顰《ひそ》んだ眉、上擦った眼、食いしばった口、蒼白の顔色、そういう顔だったのに、何んと現在《いま》の顔は、のびのびとした眉の、沈着《おちつ》いた眼の、穏かに軽く結んだ口の、尋常の人の容貌に返っているではないか。これはどうしたことなのであろう? 奇蹟的事件にぶつかった時、人は往々、濁った気持ちや、狂った精神《こころ》を、本来の正気に戻すことがあるものであるが、薪左衛門にとっては、天国の剣の出現は、その奇蹟的事件といっていいらしく、そのため、烈しい感動を受け、日頃の狂疾が、一時的に恢復したのかもしれない。
「ナニ正気の人間に?」
 と、薪左衛門は、栞の言葉を、不審《いぶか》しそうに聞き咎めた。
「栞や、正気の人間とは?」
「おお、お父様お父様、あなた様は、長らくの間、ご乱心あそばしておいでなされたのでございます」
「乱心?」
「はい、過ぐる年、松戸の五郎蔵という、博徒の親分が参りまして、お父様と、お話しいたしましてございますが、その時、突然お父様には、『汝《おのれ》、来栖勘兵衛、まだこの俺を苦しめるのか!』と叫ばれまして、その時以来、ずっとご乱心……」
「…………」
「そればかりか、お父様には、以前からお持ちの、腰の刀傷が元で、躄者《いざり》に……」
「ナニ、躄者に?」と、叫んだかと思うと、薪左衛門は、腰を延ばし、ノッと立ち上がった。立てなかった。
「おおおお栞や、わしは躄者じゃ! ……躄者じゃ躄者じゃ、わしは躄者じゃ! ……ワ、わしは、イ、躄者じゃーッ」
 時が沈黙のまま経って行った。天井裏で烈しい音がし、悲しそうな鼠の啼き声が聞こえた。こういう古屋敷の天井裏などには、大きな蛇が住んでいるものである。それが梁《はり》から落ちて、鼠を呑んだらしい。
 時が経って行った。
 薪左衛門の顔には、恐怖、悲哀、絶望、苦悶の表情が、深刻に刻まれていた。当然といえよう。乱心していたということだけでさえ、恥ずかしいことだのに、躄者にさえなったという。生まれもつかぬ躄者に。
 薪左衛門は眼を閉じた。その瞼が痙攣を起こしているのは、感情を抑えているからであろう。栞の肩を抱いている手が、烈しく顫えているのも、感情を抑えているからであろう。
 父の苦悶の顔を、下から見上げている栞の顔にも、恐怖と不安と悲哀とがあった。
(烈しいお父様の苦悶が、
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