五味左衛門の屋敷などへも再三出かけて行って、無心したらしい。又兵衛の方は、わけても人物で、仁義なども心得ており、大義名分などにも明らかで、王道を尊び、覇道を憎む議論などを、堂々と述べて、男らしいところを見せたので、ついわしなど、進んで金を出してやったものじゃ」と、父は語った。
 しかし、その勘兵衛や又兵衛は、亡父《ちち》の話によれば、とうの昔に――二十年も以前《まえ》に、世間から姿を消してしまった筈であった。しかるに、薪左衛門殿が、その有賀又兵衛だという。(何故だろう?)しかし、頼母は、すぐ苦笑した。(相手は狂人《きちがい》なのだ、狂人の云うことなどに、何故も不思議もあるものか)
「栞殿」と、頼母は、塚の方をチラリと見たが、「お訊きいたしたいは、ここに作られてあります古塚、どうやらこれは野中の道了の……」
 云われて栞も、眼にあてていた袖の隙から、塚の方を眺めたが、
「は、はい」
「野中の道了の塚を、お屋敷の庭へ作られるとは、何か仔細が……」

    道了塚の秘密は

 栞の泣き声は高くなり、しばらくは物を云わなかった。肥《ふと》りざかりの、十七の娘にしては、痩せぎす[#「せぎす」に傍点]に過ぎる栞の肩は、泣き声につれて、小刻みに顫えるのであった。
「それもこれも……」と、栞は、やがて、途切れ途切れに云った。「父の心を……正体ない父の心を……少しなりとも慰めてやりたさに……才覚しまして……妾《わたくし》が……」
 顔から袖をとり、塚の頂きの碑を眺めた。南無妙法蓮華経という、七字だけが黒く、その周囲の碑の面は、依然、月の光で、鉛色に仄《ほの》めいて見えていた。
「父は」と、栞は、またも途切れ途切れに云った。「妾、物心つきました頃から、一里の道を、毎日のように、野中の道了様まで参りまして、塚の周囲を廻っては、物思いに耽りましたが……乱心しましてからは、それが一層烈しくなり、日に幾度となく……それですのに、父は躄者《いざり》になりましてございます」
 嗚咽《おえつ》の声はまた高くなった。娘は、父親を抱き締めたらしい。白髪の頭が、肩から外れて、栞の胸にもたれ[#「もたれ」に傍点]ている。
「父には以前から、股に刀傷がございましたが、弱り目に祟り目とでも申しましょうか、乱心しますと一緒に、悪化《わる》くなり、とうとう躄者《いざり》に……」
 草に落ちている抜き身は、氷のように光っている。庭のそちこちに咲いている桜は、微風に散っている。
「躄者になりましても、道了様へは行かねばならぬと……そこは正気でない父、子供のように申して諾《き》きませぬ。躄車《くるま》などに乗せてやりましては、世間への見場悪く、……いっそ、道了様を屋敷内へお遷座《うつ》ししたらと……庭師に云い付け、同じ形を作らせましたところ、虚妄《うつろごころ》の父、それを同じ道了様と思い、このように躄車に乗り、朝晩にその周囲《まわり》を廻り……」
 悲しそうに、また栞は、眠りこけている父親を見やるのであった。
 身につまされて聞いていた頼母は、いつか、栞の前へ腰を下ろし、腕を組んだ。
 急に栞は、怒りの声で云った。
「父を脅かす者は、松戸の五郎蔵なのでございます。父は妾《わたくし》に申しました。『五郎蔵が殺しに来る。彼奴《きゃつ》には大勢の乾児《こぶん》があるが、俺《わし》には乾児など一人もない。味方が欲しい、旅のお侍様などが訪ねて参ったら、泊め置け』と。……」
(そうだったのか)と頼母は思った。(不思議に厚遇されると思ったが、さては、いつの間にか俺は、この屋敷の主人の、警護方にされていたのか)しかし事情が事情だったので、怒りも、笑いも出来なかった。
 更けて行く夜は、次第に寒くなって来た。老人をいつまでも捨てておくことは出来なかった。二人は、躄車《くるま》を押して、屋敷の方へ行くことにし、頼母は、まず、草に捨ててある刀を拾い取り、老人の背の鞘へ差してやった。それから躄車を押しにかかった。
「勿体《もったい》のうございます」
 栞が周章《あわ》てて止めた。手が触れ合った。
「あっ」
 栞の声が情熱をもって響いた。
「ああ」
 思春期の処女《おとめ》というものは、男性《おとこ》のわずかな行動によって、衝動を受けるものであり、そうしてその処女が、愛と良識とに恵まれている者であったら、衝動を受けた瞬間、相手の男性の善悪を、直観的に識別《みわ》け、その瞬間に、将来を托すべき良人《おっと》を――恋人を、認識《みとめ》るものである。狂人の、孤独の父親に仕え、化物《ばけもの》屋敷のような廃《すた》れた屋敷に住み、荒らくれた浪人者ばかりに接していた、無垢《むく》純情の栞が、今宵はじめて、名玉のように美しく清い、若い武士と、不幸な一家のことについて語り合ったあげく、偶然手を触れ合ったのであった。
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