討たれぬぞ! それに俺の周囲《まわり》には、いつも警護の者が附いている。今夜もこの屋敷には、六人の腕利きが宿直《とのい》している筈だ。勘兵衛、これ、汝に逢ったら、云おう云おうと思っていたのだが、野中の道了での斬り合い、俺は今に怨みに思っておるぞ! 事実を誣《し》い、俺に濡れ衣《ぎぬ》を着せたあげく、俺の股へ斬り付け、躄者になる原因を作ったな。おのれ勘兵衛、もう一度野中の道了で立ち合い、雌雄を決しようと、長い長い間、機会の来るのを待っていたのだ! さあここに野中の道了がある、立ち合おう、刀を抜け!」それから屋敷の方を振り返ったが、「栞《しおり》よ、栞よ、勘兵衛が来たぞよ、用心おし、栞よ!」
 と悲痛に叫んだ。
 老人はそう叫びながら、やがて、片手で棒を握り、それで漕いで、躄者車《くるま》を前へ進め、片手で刀を頭上に振りかぶり、頼母の方へ寄せて来た。頼母は、唖然《あぜん》とした。しかし、唖然とした中にも、自分が人違いされているということは解った。それで、刀の柄へ手をかけたまま、背後《うしろ》へジリジリと下がり、
「ご老人、人違いでござる。拙者は来栖勘兵衛などという者ではござらぬ。拙者は、伊東頼母と申し、今朝より、ご当家にご厄介になりおる者でござる」と云い云い、つい刀を抜いてしまった。

    娘の悲哀

 すると、その時、屋敷の雨戸の間に、女の姿が現われ、こっちを見たが、急に、悲鳴のような声を上げると、駈け寄って来、
「お父様、何をなさいます。そのお方は、お父様を警護のため、今日、お家《うち》へお泊まりくださいました、伊東頼母様と仰せになる、旅のお武家様ではございませんか。おお、お父様お父様、正気づかれてくださいまし!」
 と叫び、老人の刀持つ手に取り縋った。栞であった。しかし老人は、
「娘か、用心おし! 来栖勘兵衛が、わし[#「わし」に傍点]を殺しに来たぞよ! そこに勘兵衛がいる!」
 と叫び、尚、車を進めようと、片手の棒で、地上を漕ごうとするのであった。
「いえいえお父様、あのお方は来栖勘兵衛ではございません。よくご覧なさいまし、お年が違います。勘兵衛より、ずっとお若うございます」
 こう云われて老人は、はじめて気づいたように、つくづくと頼母を見たが、
「なるほどのう、年が違う、前髪立ちじゃ。勘兵衛はわし[#「わし」に傍点]より一つ年上だった筈じゃ。勘兵衛ではない」
 落胆したように、また、安心したように、老人は、急に首を垂れ、振り上げていた刀を下げると、弱々しく、子供のように、栞へもたれ[#「もたれ」に傍点]かかった。赤い布のかかった艶々《つやつや》しい髪の下、栞の肩へ、老人の白髪《しらが》頭が載っている。白芙蓉のような栞の顔が、頬が、老人の頬へ附いている。秩父絹に、花模様を染め出した衣裳の袖から、細々と白い栞の手が延びて、老人の肩へかかっているのは、車の上の老人を、抱介《だきかか》えているからであった。いつか老人の手から、刀も棒も放され、刀は、車の前の、枯れ草の上に落ちた。何んと老人は眠っているではないか。刀を構え、この様子を眺めていた頼母は、危険はないと思ったか、刀を鞘に納め、二人の方へ寄って行ったが、
「栞殿、そのご老人は?」と、探るように訊いた。
「父でございます」――栞の声は泣いている。
「ご尊父? では、薪左衛門殿で?」
 栞は黙って頷いた。
「それに致しても、ご尊父には、ご自身を、有賀又兵衛じゃと仰せられたが?」
「父は乱心いたしおるのでございます」
「ははあ」頼母はやっと胸に落ちたような気がした。狂人《きちがい》ででもなければ、深夜に、躄《いざ》り車などに乗り、刀を背負い、現われ出《い》で、自分を来栖勘兵衛などと見誤り、ガムシャラに斬ってなどかかる筈はない。(俺は、狂人を相手にしていたのか)頼母は、鼻白むような思いがしたが、
「ご乱心とはお気の毒な。していつ頃から?」
「五年前の、ちょうど今日、府中の火祭りの日でございましたが、松戸の五郎蔵と申す、博徒の頭《かしら》が参り、父と、密談いたしおりましたが、突然父が、『汝《おのれ》、来栖勘兵衛、執念深くもまだ、この有賀又兵衛を、裏切り者と誣《し》いおるか!』と叫びましたが、その時以来……」
 栞は、片袖を眼にあてて泣いた。
 屋根ばかりに月光を受けて、水のような色を見せ、窓も雨戸も、一様に黒く、廃屋のように見えている屋敷は、不幸な人々を見守るかのように、庭をへだてて立っていた。
(有賀又兵衛、来栖勘兵衛?)と、頼母は、考え込んだ。頼母は、有賀又兵衛、来栖勘兵衛という、伝説的にさえなっている、二人の人物の噂を、亡き父から聞かされていた。
「浪人組の頭での、傑物であった。わし[#「わし」に傍点]の家などへも、徒党を率《ひき》いてやって来て、金などを無心したものじゃ。
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