その一触が、彼女の魂を、根底から揺り動かし、「叫び」となって、彼女の口から出たのは、無理だとは云えまい。頼母は、栞の叫び声に驚いて、栞を見詰めた。栞の眼に涙が溢れていた。しかしその涙は、さっき、父親や、自分の家の不幸のために泣いた涙とは違い、歓喜と希望と愛情とに充ちた涙であった。栞の頬は夜眼にも著《しる》く赤味|注《さ》していた。頼母は、何が栞をそうまで感動させたのか解らなかった。手と手と触れ合ったことなど、彼は、気がつかなかったほどである。それほど彼は無邪気なのであった。しかし、栞の感動が、自分を愛してのそれであるということは直覚された。このことが今度は彼を感動させた。
(この娘がわし[#「わし」に傍点]を!)
その娘は、自分にとっては命の恩人と云えた。この娘の介抱がなかったら、自分は今朝死んでいたかもしれない!
(この娘がわし[#「わし」に傍点]を!)
頼母の心へ感謝の念が、新たに強く湧き、それと一緒に、愛情がヒタヒタと寄せて来るのを覚えた。
立ち尽くし、見詰め合っている二人の頭上には、練り絹に包まれたような朧《おぼ》ろの月がかかってい、その下辺《したべ》を、帰雁《かえるかり》の一連《ひとつら》が通っていた。花吹雪が、二人の身を巡った。
「勘兵衛!」と、不意に老人が叫んだ。「天国《あまくに》の剣を奪ったのも汝《おのれ》の筈じゃ! それをこの身に!」
(天国?)と、頼母は、ヒヤリとし、恍惚の境いから醒めた。
(この老人も、天国のことを云う!)
父、忠右衛門が、横死をとげ、自分が復讐の旅へ出るようになったのも、元はといえば、天国の剣の有無の議論からであった。頼母は、天国の名を聞くごとに、ヒヤリとするのであった。
(紙帳から出て来て、俺に体あたり[#「あたり」に傍点]をくれた武士も、天国のことを云ったが、薪左衛門殿も、天国のことを……)
頼母は、薪左衛門を見た。薪左衛門は眠っていた。眠ったままの言葉だったのである。
五郎蔵の賭場
こういうことがあってから、三日経った。
ここ、府中の宿は、火祭りで賑わっていた。家々では篝火《かがりび》を焚き、夜になると、その火で松明《たいまつ》を燃やし、諏訪神社の境内を巡《まわ》った。それで火祭りというのであるが、諏訪神社は、宿から十数町離れた丘つづきの森の中にあり、その森の背後の野原には、板囲いの賭場《とば》が、いくらともなく、出来ていて、大きな勝負が争われていた。
伊東頼母が、この一劃へ現われたのは、夕七ツ――午後四時頃であった。歩いて行く両側は賭場ばかりで、場内《なか》からは景気のよい人声などが聞こえて来た。夕陽を赤く顔へ受けて、賭場へはいって行く者、賭場から出て来る者、いずれも昂奮しているのは、勝負を争う人達だからであろう。総州松戸の五郎蔵持ちと書かれた板囲いを眼に入れると、頼母は、足をとめ、
「これが五郎蔵の賭場か、どれはいってみようかな」
と呟いた。
というのは、不幸な飯塚薪左衛門親子を苦しめる、五郎蔵という、博徒の親分の正体を見|究《きわ》めようために、やって来た彼だからである。そうして、彼としては、機会を見て、五郎蔵と話し、何故薪左衛門を脅《おど》すのか? 事実、薪左衛門は有賀又兵衛であり、五郎蔵は来栖勘兵衛なのか? 野中の道了塚で、二人は斬り合ったというが、その動機は何か? 野中の道了塚の秘密は何か? 等をも確かめようと思っているのであった。
それにしても飯塚薪左衛門の屋敷から、この府中までは、わずか一里の道程《みちのり》だのに、なぜ三日も費やして来たのであろう?
彼は三日前のあの夜、薪左衛門の屋敷で、ああいう事件に逢ったが、それから躄《いざ》り車を押して、栞共々、庭から屋内へ、薪左衛門を運び入れた。屋敷の中は大変であった。五人泊まっていたという浪人のうち、一人は斬り殺されてい、一人は片足を斬られてい、後の三人の姿は消えてなくなっていた。片足を斬られた浪人の語るところによれば、紙帳を釣って、その中にいた五味左門と宣《なの》る武士によって、この騒動が惹《ひ》き起こされたということであった。
この事を聞くと、頼母は仰天し、娘の栞へ、そのような武士を泊めたかと訊いてみた。すると栞は、「五味左門と宣り、一人のお武家様が、宿を乞いましたので、早速お泊めいたしましたが、お寝《やす》みになる時、紙帳を釣りましたかどうか、その辺のところは存じませぬ」と答えた。それで頼母は、どっちみち、紙帳の中から出て来て、自分を体あたり[#「あたり」に傍点]で気絶させた、武道の達人が、自分の父の仇の、五味左門であるということを知ったが、そんな事件が起こったため、その処置を、栞と一緒に付けることになり、三日を費やし、三日目の今日、ようやく府中へ来たのであった。
「なかなか立派
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